ペンギンの話

ペンギンのことをつらつら書いていきます。

けものフレンズ2の感想

アニメ『けものフレンズ2』が最終話を迎えました。ひと段落ついたところで、私の感想を書き留めておきたいと思います。

放送期間中、私は最新話の放送を楽しみにしていましたし、作品のなかからいろいろないいところを見つけることができました。「人と動物の関係」をサブテーマにしたのは目の付けどころがよかったと思いますし、キャラクターの造形もかわいかったですね。アイキャッチの動物解説は、情報の充実度という点ではあのやり方が正解だろうと思います。PPPのライブシーンは圧巻でしたね。何度も見てます。

けれど最終的に、私のなかで『けものフレンズ2』は、(前作のように)手放しで称賛できる作品にはなりませんでした。どうしても気になってしまう点があったからです。

それらは、大きく3つのカテゴリーに分けられます。第8話のなかに、それぞれがよく表れているように思うので、これを例にとって説明します。

第8話は、PPPとマーゲイの登場する回です。PPPのステージに新しい要素を取り入れて広がりを持たせようと考えたマーゲイが、PPPを主役とした演劇の開催を計画するも、演劇という概念自体がフレンズに共有されていないこと、PPP自身も演劇の経験がなく不安感が強かったことから、計画は頓挫。しかし、ステージ本番でのトラブルを打開するためにキュルルたちの協力によりその演劇を行ったところ、結果的にステージは大成功し、マーゲイはPPPからその功績を認められ、信頼を勝ち取る、というあらすじです。

この回のなかでまず私が違和感を覚えたのは、マーゲイに対するPPPたちの反応でした。お互いの関係性を考慮すると、ちょっと素っ気ない、というよりは冷たくないか、と感じられてしまったのです。

演劇の実施に関してPPPがマーゲイにNOを突きつける場面は、作中で2回出てきます。1回目は、ほかの演者のオーディションの審査員から降りるとき。このときはプリンセスが、新曲の練習に集中したいことをマーゲイに伝えます。マーゲイはメンバーに気を使い、オーディションを1人で引き受けると伝えますが、それに対する謝罪や感謝の言葉はありませんでした。そばにいたコウテイもとくにフォローするでもなく、まるでマーゲイが自ら進んで「任せてください」と言ったかのように「そうか、じゃあ、任せた」と返します。2回目は、アクションシーンのある劇で怪我をしたら肝心のステージに差し支えるからと、演劇自体の中止を提案するとき。ここではプリンセスは、「マーゲイがいろいろ考えてくれているのはわかる」と理解を示しつつも、やはり謝罪などはなく、「今回は必要ないかなって」といささか強めの言葉を使っています。コウテイからもやはりフォローはなく、マーゲイが引き下がると、むしろ厄介ごとが片付いたというような口調で、「よし、じゃあ歌の練習を再開だ」とその場を後にします。残りのメンバーからもマーゲイを気遣うような発言はとくにありません。

これらのシーンを見て、PPPとマーゲイはこんなにすれ違っちゃってるのか、と私はおののきました。とくに、アニメ無印では飛び出していったプリンセスをまっさきに追いかけようと言うなど仲間思いな面があると感じていたコウテイがなんのフォローもしない、むしろ追い討ちをかけるようなことを言うというのはくっきりショックでした。

PPPは世代によってメンバーの人数が変動します。フライ先生の漫画版では正確な人数は出てきませんが、ネクソンアプリ版では4人で、ロイヤルペンギンはいませんでした。その前提で、アニメ1期と同じ5人、さらに漫画版やアプリ版ではPPPとからみのなかったマーゲイが無印と同じくマネージャーについているのですから、「2」の個体は無印と同一個体である可能性が高いと思われます。だとすれば、そもそも無印でのPPPの危機を救った功績が認められてマネージャーに任命されたマーゲイとPPPとの間には、はじめから信頼関係が成り立っていたはずです。それがどうして、コウテイにすら、社交辞令であっても「ありがとう」や「ごめんなさい」を言ってもらえないまでに冷え込んでしまったのか。もっとはじめから信頼関係を感じられるように描いてくれてもよかったのではないか、と感じました。

けものフレンズ2』では、このように胸をざらつかせる描写がいささか多かったように思います。それが、気がかりの1つめです。

第8話については、あるいは、同じ構成であっても「2」のPPPとマーゲイは無印とは別個体なのかもしれません。マーゲイの回想シーンやPPPのサーバルに対する反応(というか無反応)など、そう思わせるような要素はあります。「2」のマーゲイはまた新たにPPPと信頼関係を築いている途中である、と考えれば、納得はできます。ただ、その場合は別の疑問を抱かざるを得ません。それは、このPPPはなんでアイドルをしているんだろう、という疑問です。過去作品では理由付けは容易でした。漫画版やネクソン版は「ヒトがいた頃のジャパリパーク」が舞台なので、イルカショーをやるような感覚でフレンズのアイドルグループを作ろうとヒトが画策したのだろうと自然に考えられます。アニメ無印では、過去にパークにアイドルというものが存在したことを知ったプリンセスが、自分もやってみたいと過去のPPPメンバーを調べ、該当するフレンズをリクルートしてPPPを結成しました。舞台版はアニメ無印のパラレルワールド。じゃあ、今回は? 無印では、プリンセスに声をかけられるまで、ほかのメンバーはアイドルになろうだなんて露ほども考えていませんでした。ペンギンが自然にアイドルになるのではないならなんらかのきっかけが必要だったはずですが、それがなんだったかは、「2」のなかでは語られることがありません。「2」の第8話はあくまでマーゲイが主役だったので設定はあっても省いたのかもしれませんが、別個体であるならば、軽くでも、理由の提示があればよかったのにな、と思ってしまいます。そもそもそのあたりがあやふやなせいで、このPPPとマーゲイが無印と同一個体なのか別個体なのか、いまいち判断がつかなくなっているようにも思うからです。マーゲイが登場時にサーバルに反応していたので(ピンポイントでサーバルに反応していた描写ではなかったですが、流れを踏まえるとサーバルに反応していたように考えられる)、これは同一個体かな、と思ったものの、その後PPPは無反応。マーゲイから説明があったとしても何かしらの反応はあると思うので、あの無反応っぷりはサーバルを知らない別個体であることの表れのように感じられます。マーゲイだけが同一個体でPPPが代変わりしたのだとしたら、マーゲイの回想シーンと矛盾するように思われます。と、結局なんやねん、と混乱してしまうのです。

けものフレンズ2』では、このような不明瞭な設定も多かったように思います。ほかにたとえば、第10話のアライさんのセリフは無印と同一個体であることを思わせるものでしたが、もしアラフェネが同一個体なのだとすれば、無印のあと自然に世代交代するほどの時間は経っていないと考えられます。しかしそれでは、かばんと一緒に研究している博士と助手は同一個体なのか別個体なのか。同一個体なのであれば島の長の立ち場を捨ててかばんのもとへやってきた理由はなにか、別個体ならばキョウシュウの博士助手はどうなったのか。パークではそんなにたくさん双子が生まれるのか。疑問符がたくさん湧いてきます。そもそもキュルルの正体はなんだったのか。それが、気がかりの2つめです。「けものフレンズプロジェクト」自体が、いろんな設定を曖昧なままにしておくことで作品展開の自由度を担保する戦略をとっているようにも思えますが、キュルルが何者で、どういう経緯でコールドスリープしていたのかがわからないまま、というのはさすがに乱暴なのでは、と思わなくもありません。

3つめの気がかりは、振る舞いが無印の印象とちょっと合わないなぁ、と感じるフレンズが少なからずいたこと。前述したコウテイの振る舞いなどがそうですね。ほかにはかばんにポカがちょっと多いのでは、というあたりも含まれます。ただ、コウテイについていえば別個体であるとはっきりしていればこの子はそういう子なんだな、と捉えることもできますし(アプリ以前のコウテイに白目属性はたぶんなかった。滑り属性ももちろんなかった)、かばんの振る舞いについてはどうしてそうなったのか(海底火山に気づかなかったのは、黒セルリアンに食べられた経験が強烈すぎて「セルリアンは山からくる」というバイアスに縛られていたからではと勝手に想像していますけれど、そういうこと)が仄めかされでもしていれば印象は違ったかもしれませんから、これらは1つめや2つめに還元されるようにも思います。

以上が、私が『けものフレンズ2』に感じている3つの気がかりです。

SNS上では同じような理由のために「けものフレンズ」から離れたらしい人も見かけました。そのことも含めて、これらのことが、『けものフレンズ2』を賞賛できない理由になっているのです。

あるいはこれらの気がかりは、ひとつひとつのエピソードにもう少し時間をかけて、ゆっくり話を進めるようにすれば解消されたのかもしれません。クッションとなるような間や言葉を少し足せば「ギスギス感」はいくぶん和らいだと思いますし、キャラクターの背景をより詳しく描写することもできたように思います。とすればこれらは結局のところ、「尺が足りてない」ということに集約されるのかもしれません。そうであれば、現在連載中の漫画版や、設定・伏線については今後の新作品などでの補足、埋め合わせは可能でしょうから、期待したいところです。

というわけで、敢えて星をつけるとすれば、『けものフレンズ2』は私のなかでは今のところ星3つというあたりです。私にとって楽しめる要素はあるけれど、人に薦めたりはしないだろうな、と感じています(PPPのライブシーンはすごいから見て!と言いますけど。あとロバかわいい)。失敗作という評価に対しても、否定しうるだけの手札を見つけられてはいません。無人島に1本だけアニメを持っていっていいよ、と言われたら、たぶん無印を持っていくと思います。ごめんなさい。

ただ、「けものフレンズ」自体をここで見限る、という気持ちにもなれません。それがきっかけでツイッターアカウントをフォローしてくださっている方もたくさんいらっしゃいますし、新フレンズ登場をきっかけにもと動物についての情報がタイムラインに溢れる現象はとても楽しいですし、キャラクター自体はとても好きなので(わざわざ入会している動画サービスで観れる限りほかのアイドルアニメのライブシーンを確認してみて、「やっぱりプリンセスがいちばんかわいい」と思いました。プリンセスはかわいいし、かばんよりも人間臭いところが最高です)。繰り返しになりますが、「2」の中に好きなところがたくさんあるのも事実です。わりと、悩ましい状態で過ごしていますが、たぶん、けものフレンズプロジェクトはこれからも追いかけていくのではないかと思います。

最後に余談ですけれど、『けものフレンズ2』を追いかけながら、ときどき、以前読んだ本の一節を思い起こしていました。

川端裕人さんの『動物園にできること』の冒頭に出てくる一節です。

ぼく自身、動物園が好きである。正確に言えば、少なくとも子どもの頃、動物園には目がなかった。毎週のように両親や祖父に地元の動物園に連れていって欲しいと頼み、実際に訪れると、お気に入りのゾウやカバやキリンの展示に向かって子どもなりの猛スピードでダッシュした。(中略)

長ずるにあたって、少しずつ動物園の持つ意味が変わってきた。動物園が好きかと聞かれればきっと今でも「好きだ」と答える。しかし、そう答えた時に、心にわきあがるフクザツな気持ち。いつのまにかぼくにとって動物園は、動物を見ることができる楽しい場所から、それだけではすまない多くの問題を抱えた場所になっていた。

(中略)

野生動物を飼うということがいったいどういうことなのか、あらためて考えさせられる。野生動物は棲息地から引き離した瞬間に野生動物ではなくなる。それでも彼らを動物園に連れてきて人間に見せる意義というのはなんなのだろう。動物園を好きであると言明しつつ、動物園の存在を正当化するのが難しく感じる瞬間もある。

動物園が好きな人なら、多分全員が同じように感じているのでは思う内容ですが、「けものフレンズ」に対する感情はわりとこれに近いなあ、と思ったのです。もちろん、たかがアニメがなにか失敗したところで動物が死ぬわけではないので、こんなややこしく考える必要はひとつもないのですけれど、なんというか自分が分裂する感じは重なりました。まさか動物園を戯画化したアニメーションでこんな思いを抱くことになろうとは。 

 

博物館へ行こう。

私はずっと、首都圏で暮らしてきた。

首都圏には、大きな動物園や水族館がたくさんある。世界三大珍獣オカピジャイアントパンダコビトカバ)がすべて揃っている上野動物園や、リカオンオセロット、キノボリカンガルーなどほかでは見られない動物を多く展示しているズーラシア、日本で唯一、クロマグロの回遊水槽を備えている葛西臨海水族園、日本では2つの施設でしか飼育されていないシャチのいる鴨川シーワールドなど、なかなかお目にかかれない動物を見ることのできる施設も多い。ペンギンにしても、コウテイペンギンとヒゲペンギンを除けば、日本で飼育されている種ならばどこかしらで見ることができる。動物を見たいと思ったときに、不自由を感じることはあまりない(箱根園水族館にマカロニペンギンを見に行くのはいささか骨が折れるが)。

そのような環境にいると、「わざわざ剥製を見て何になる」という気持ちを少なからず抱いてしまう。すぐそこで本物が眠りこけているのに、やや高い入館料を払って剥製のパンダを見るのか?  だから私は、動物の展示を見るために博物館に行ったことがあまりない。科学博物館、あるいは自然史博物館は恐竜の化石を見に行くところ、という印象をずっと持っていた。

けれども、動物を「見る」というだけでなく、動物について「知る」のであれば、動物園で生きた動物を見るだけでなく、博物館の展示を見ることもやっぱり大事だな、と近頃は思っている。

動物園の役割は、「生きた動物だからこそ伝えられる、動物本来の姿」を見せることだ。たとえば本来群れで生活するゾウなら、数頭を飼育し、大きなスペースを与えて群れで展示することが望ましい。集団で密集して営巣するペンギンならば、やはり広い場所で、小競り合いが起こるような数で飼育することが望ましい。一種あたりにかけるリソースを最大限にすることで、動物園の展示効果は最大になる。

けれども、ジャパリパークのようにリソースの有り余る場所でない限り、「一種にかけるリソースを増やす」ことは、「展示種数を絞る」ことと裏表の関係になる。ゾウ5頭分の飼育スペースが用意できる施設があるとして、そこで「アジアゾウ2頭、アフリカゾウ3頭」のような飼い方をするのは好ましくない。どちらかの種に絞って、5頭の群れで飼うべきである。「生きた動物」を最大限活かすためには、「網羅性」をある程度犠牲にする必要があるのだ。

また、かりにアジアゾウアフリカゾウ両方を群れ飼育できるだけの施設があったとしても、それぞれの展示スペースが広大になるため、双方を並べて比較する、というようなことは難しい。まずアジアゾウを観察して、「アフリカゾウだとどうなってるんだ?」と思ったら、えっこらえっこらアフリカゾウの展示まで歩いていかなければいけない。これはなかなか骨が折れる。何度も往復するとなったら心も折れる。

それに、「生態を見せる」ということであれば、いくら似ていて、比べると面白いからといって、北極海ウミガラス南極海のペンギンを一緒に展示するわけにはいかない。ペンギン同士なら許容範囲と思われても、フンボルトペンギンコウテイペンギンは、生理学的に一緒に飼えない。

つまり、動物園は、「ひとつの種を隅から隅まで観察できる」極めて優れた施設である一方で、動物同士を比べてみるとか、関係を知るといった面では少なからず制約がかかってしまうのである。

博物館の展示は、その穴を埋めてくれる。

展示されるのは剥製などの標本だから、その標本が安全に置けるだけのスペースがあればいい。群れを作る必要もない。標本のタイプが同じならば原産地がどこであろうと保存方法は同じだから、異なる環境に住んでいる動物同士でも並べて置ける。だから、博物館では、「生きてはいないけれど紛れもない本物(本物を完コピしたレプリカのこともあるけど)」を使って、系統関係や種間関係を1枚の絵のように見ることができる。

たとえば、国立科学博物館地球館1階の「系統広場」では、床に描かれた系統樹の先に本物の剥製を配置し、生物の系統関係を一望することができるようになっている。ペンギン代表としてキタイワトビペンギンの剥製が展示されていて、どんな動物と系統が近く、どんな動物とは遠いのか、がわかるようになっている。

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系統広場のキタイワトビペンギン

同じく地球館3階「大地を駆ける生命」の「多様な鳥の形」では、さまざまな種類の鳥の剥製をずらっと並べ、食性や生活環境による形態の類似点、相違点を比較できるようになっている。ペンギンの仲間ではフンボルトペンギンの剥製が展示されていて、ほかの水鳥とどこが同じでどこが違うのかを比べることができる。

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「大地を駆ける生命」のフンボルトペンギン

動物園では確かめにくいことを、より手軽に調べることができるのである。

また、動物園ではどうしても大掛かりになってしまう「景観」を見せるような展示も作りやすく、1フロアでコンパクトに「世界」をまとめることもできる(ズーラシアは東京ドーム10個分もあるのに!)。情報の一覧性の高さでは、動物園を圧倒している。

ある動物について解説するときにも、動物園の飼育員さんと博物館の学芸員さんとでは切り口が違うので、博物館ならではの発見は多い。

だから、動物について知りたければ、動物園と博物館、両方行ったほうが面白いな、と思うのである。

みなさんもよろしければ、近くの博物館へ足を運んでみてください。

www.kahaku.go.jp

国立科学博物館のひみつ

国立科学博物館のひみつ

 
大人も楽しい 博物館に行こう

大人も楽しい 博物館に行こう

 

 

加速装置としてのけものフレンズ

ここのところ、Twitterのタイムラインを眺めているのが楽しい。

アニメ『けものフレンズ2』放送中である今は、最新話が放送されるたびに、登場する動物に関するツイートがタイムラインに溢れるからである。

フレンズの設定の下敷きになったであろう習性やエピソードを紹介してくれる人、愛が深すぎてひたすらココ好きポイントを連投する人。普段、その動物について語りたくてしかたがない人が、アニメをきっかけにその情熱をほとばしらせている感じがとても素敵だし、知らなかったことをたくさん教わることができるのでためにもなる。だから、最新話放送後数日のタイムラインからはついつい目を離せなくなる(第5話の後とかやばかったですね)。

けれど、よく考えてみればこれは不思議なことだ。タイムラインに流れてくる情報を私が知らなかったということは、私はもともとその動物に興味がなかったということだからだ。興味がないから、これまでその動物について調べることもなかったし、どこかで聞いたかもしれない話も忘れてしまっているわけで、それならば今、目の前に流れてきたツイートも、同じように流してしまってもおかしくないはずなのだ。その動物について暑っ苦しく語る人のことを、鬱陶しいと思ってもおかしくないはずなのだ。それなのに、私はそれらのツイートを面白いと思い、リツイートしたり、いいねをつけたりしている。いったいどういうわけなのだろう?

答えは簡単で、「アニメを視聴した」そのこと自体によって、動物に対する興味・関心の程度が変化させられているからだ。

フレンズたちは、かわいらしい女の子の出で立ちをして、人間に近い心を持っている。そのため、元動物への興味関心とは無関係に、キャラクターとしてそのフレンズを好きになる、ということがある(私の場合、いちばん好きな「ペンギン」はジェンツーペンギンだが、いちばん好きな「ペンギンのフレンズ」はロイヤルペンギンのプリンセスである)。一方で、多くの場合、彼女らは「動物の名前」で呼ばれ、また元動物の特徴を外見や行動に多く引き継いでおり、元動物とは不可分の存在とされる。と、フレンズに対して芽吹いた好感に媒介されて、もともと興味のなかった元動物に対する関心が、無意識のうちに高まるのである。もし、積極的には元動物について調べようと思わなかったとしても、「フレンズ」を好きになることを通じて、流れてきた元動物に関する情報が、より「ひっかかる」ような精神状態に、いつの間にか変わっている。だから、それまで流してしまっていたはずの情報を面白がれるようになるのだ。

けものフレンズ』の効果のキモはこの辺にあるのだろうな、と思っている。

いわゆる動物好きであったとしても、人によって、興味のあり方にはばらつきがある。なにしろ、(けものフレンズの対象種で言えば)哺乳類だけでもおよそ6000種、鳥類と爬虫類がそれぞれおよそ10000種いるわけで、その全部に平等に関心を持つ、というのもなかなか難しい(少なくとも私には難しい)。動物たちは多様性に富んだ形態・生態をしているが、それは言い換えれば、ある動物が「ストライクゾーン」である人にとって、別の動物が「ボール」になる可能性はそれなりに高い、ということでもある。だから、同じ「動物好き」同士でも、そのままでは会話が盛り上がらない、ということもある(敬意を持ってお互いの話を楽しむ、ということはもちろんできるが、力点がずれているので、なんとなく不完全燃焼に終わる、ということもあるのだ。下戸猩々さんがリカオンのハンティングの美しさについて力説するのを聞きながら、白輪剛史さんはメガネカイマンの話をしたいと思っているかもしれない)。また、興味関心に基づいて編集されるSNS上ではつながりにくい、ということもある。すると、情報のやりとりが先細りになってしまったりする。

しかし、『けものフレンズ』は、前述のような仕組みでその壁に穴を開ける。フレンズを触媒にすることで、「もともとその動物について迸る熱いパトスを持っていた人」と、「そうでもなかった人」のエネルギー差を解消し、近い熱量で共にその動物を見つめることができるようにしてくれる。と、高感度な聞き手を得ることで、「その動物について迸る熱いパトスを持っていた人」は、その動物について、より饒舌に語り出すことになる。何かを好きな人は、その好きなものについて、きっかけを見つけては語りたがるものだが、良質な聞き手の存在はその勢いを加速させる。結果として、「自分から汗をかいて探しに行かなければいけなかった情報が、湧き水のようにタイムラインに湧いてくる」という得難い状況が出現し、私たちは、「興味を喚起させられてしまった」動物について多くのことを学び、楽しむことができる。

けものフレンズ』には、このようにして、動物に関する情報の流通を加速・増大させるはたらきがあると思うのである。それが、このコンテンツのいいところのひとつだと感じている。

そのような効果を絶やさないように、また、もっとたくさんの動物好き(できることなら専門家を)を巻き込めるように、発展していってほしいなあ、と思う。

海を飛んでいるのは誰か。

ペンギンは「海の中を飛んでいる」と表現されることがあります。いささか詩的に過ぎる表現かもしれませんが、実際、フリッパーを羽ばたかせて水の中を矢のように進んでいく様子は水の抵抗を感じさせないほど軽やかで、「飛翔」と呼ぶに相応しいように思われます。旭山動物園サンシャイン水族館日本平動物園のように、来園者の頭上に水槽を設け、ペンギンがあたかも飛んでいるかのように演出する施設が多くみられるのは、多くの飼育員さんが、「これこそがペンギンだ」と信じていることの証左でしょう。

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ペンギンが空を飛んでいるように見えるサンシャイン水族館の「天空のペンギン」水槽

しかし実際のところ、「海の中を飛ぶように泳ぐ」という表現により近いのは、ペンギンの仲間ではなく、ミズナギドリ目モグリウミツバメ科やチドリ目ウミスズメ科の鳥たちかもしれません。ペンギンと違って飛翔能力を保持しているこれらの鳥たちは、水の中でも、空を飛ぶのと同様のメカニズムで翼を動かして推進力を得ているからです。

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ウミスズメ科の一種ウミガラス葛西臨海水族園

空を飛ぶとき、鳥は広げた翼を力強く打ち下ろして推進力(と浮き上がる力)を生み出しています。打ち下ろした翼を持ち上げるときは、逆に空気の抵抗によるブレーキがかかってしまうため、それを小さくするために翼を畳んで持ち上げます。このときは推進力を得ていません。モグリウミツバメやウミスズメの仲間は、水中でも同様に、「翼の打ち下ろし」によって推進力を得ています。微妙に翼の角度などを変えながら、飛ぶ技術を泳ぎに応用しているのです。

ただ、そのために彼らの泳ぎは、「泳ぎ」としてはやや非効率なものとなっています。「翼の打ち下ろしによる加速」と「(翼を持ち上げるときの)抵抗による減速」を交互に繰り返して進むのは空気中と同じでも、水は空気に比べてずっと抵抗が大きいので、減速の度合い、エネルギーのロスが大きくなってしまうためです。また、飛ぶための翼は櫂として用いるにはいささか大きく、抵抗によって羽ばたくときの体軸のブレも大きくなるため、ペンギンに比べるとややギクシャクした泳ぎに見えます。

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一方、飛ぶことをやめたペンギンは「飛ぶための体の動き」から解放されたことで、「泳ぐために最適な動き」を獲得しました。ペンギンたちウミスズメなどと異なり、打ち下ろすときと持ち上げるときの両方で推進力を得られるように角度を変えてフリッパーを動かすことで、減速によるエネルギーロスのない効率的な泳ぎを実現しています。また、揚力を得る仕事から解放されたフリッパーは櫂として使いやすい大きさ、形態に特化させることができ、体軸のブレもずっと小さく、滑らかに進んでいくことができるようになりました。

youtu.be

結果として、泳いでいるところを比べてみると、ウミスズメの仲間に比べてペンギンの仲間のほうが、優雅で華麗であるように思われます(主観)。「飛んでいる鳥」にどちらが近いかといえば、やはりペンギンであるように見えるでしょう(主観)。力学的には「飛ぶように泳いでいる」モグリウミツバメやウミスズメよりも、「完全に泳いでいる」ペンギンのほうが「飛んでいる」ように見えるというのはなかなか味わい深い逆説です(日本のペンギン研究の草分けである青柳昌宏先生は、ペンギンについて「泳ぐように飛ぶ」と表現されていました。秀逸だと思います)。

なお、念のため付け足しておくと、ウミスズメやモグリウミツバメの仲間の生物としてのスペックがペンギンに比べて劣っているというわけではありません。大前提として、彼らは空を飛べる。餌をとるために100kmくらいは軽々飛んで移動でき、おまけに泳いで魚を捕まえられるわけで、むしろとんでもないスペックの持ち主です(飛べるのだから、疲れずに長く泳ぐための泳法は必要ない、とも考えられる)。ただ「泳ぎ」という部分に限ってみれば、スペシャリストであるペンギンのほうに分がある、というわけです。

ニシツノメドリやエトピリカウミガラスといったウミスズメ科の鳥類とペンギンを両方展示している水族館や動物園もいくつかあります(那須どうぶつ王国鴨川シーワールド葛西臨海水族園海遊館など)。機会があれば足を運んでみて、泳ぎ方を見比べてみるのも楽しいかもしれません。

 参考文献

 

独断と偏見のペンギン図鑑4:フンボルトペンギン

基本データ

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和名:フンボルトペンギン

英名:Humboldt penguin

学名:Spheniscus humboldti

体長:65〜70cm

分布:ペルー北部のフォカ島からチリのメタルキ島にかけての大陸沿岸部と周辺の島々

生息状況:準絶滅危惧種。推定個体数2万つがいほど

特徴1:日本代表

世界有数のペンギン飼育数を誇る日本であるが、その中核となっているのがフンボルトペンギンである。2016年に世界動物園水族館協会(WAZA)が中心となって、WAZAおよび6つの国・地域の関連組織(北米動物園水族館協会、欧州動物園水族館協会、前アフリカ動物園水族館協会、日本動物園水族館協会、南米動物園水族館協会、オセアニア動物園水族館協会)に所属する動物展示施設に飼育されているペンギンの種と個体数を調査した結果では、これら6つの組織の加盟施設で飼育されているフンボルトペンギンの総数が4834羽であるのに対し、日本動物園水族館協会の加盟施設で飼育されている数が1872羽であったという。およそ4割が日本で飼われていることになる。一国での飼育数ではぶっちぎりの第1位である。

日本国内で飼育されているペンギンの種類別で比較すると、2位のケープペンギン622羽の約3倍。いちばん少ないマカロニペンギン15羽の約125倍。日本で飼育されている全ペンギン総数の45%をフンボルトペンギンが占める。飼育・展示している施設の数もほかのペンギンに比べて圧倒的に多い。まさに日本を代表するペンギン。アジを投げればフンボルトペンギンに当たる。ペンギン大国ニッポンはほぼほぼ、フンボルトペンギン大国ニッポンなのである。

ペンギンは動物園、水族館の両方で飼育される動物であることから、飼育下繁殖プログラムに伴う個体の交換を通じて、普段あまり交流のない動物園と水族館をつなげる鎹となってきた。とくに個体数が多く、施設間での行き来の多いフンボルトペンギンは、その繋がりの軸になっているといえる。その意味でも、日本を代表するペンギンといえるかもしれない。

特徴2:温帯ペンギン

日本にこれほどたくさんのフンボルトペンギンがいるのは、彼らの生息地が日本の環境に近い温帯域だからである。日本の夏は多くのペンギンにとって暑すぎるが、フンボルトペンギンはもともと、最高気温が30度を超えるような場所にも住んでいる。

温暖な環境に適応するため、フンボルトペンギン(およびそのほかのケープペンギン属のペンギン)にはほかのペンギンにはみられない特徴がある。それは、頭部に広範囲の裸出部(羽毛の生えない領域)を持つということである。フンボルトペンギンの頭部のピンク色は、羽毛の色ではなく露出した皮膚の色だ。これにより熱を放散し、暑い場所でも体温が上がりにくくしているのである。体温が上がってきたときは、より熱を放散しやすくするために体表の毛細血管が拡張し、血流量が増えるので、肌のピンク色がより赤っぽくなる。

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日向にいるフンボルトペンギン。裸出部の赤みが強まっていることがわかる。口を開けているのも、呼気から熱を放散して体温を下げるための行動である。

おかげで日本でもほかのペンギンのように暑さにやられずにすんだのである。

また、温暖な気候で生活しているということは、温暖な環境下に存在する微生物に対しても抵抗力が強い、ということでもある。極地のペンギンを飼育する上での大きな問題のひとつは、彼らが人間の生活圏のほとんどに常在するカビ(Aspergillus fumigatus)にまるで抵抗力を持っていないということであった。南極は寒すぎて多くの微生物が存在できないため、極地ペンギンたちは微生物に対する抵抗力が弱い。そのためはじめのうち、ヒトであれば多かれ少なかれ日常的に胞子を吸い込んで平気でいるこのカビに肺を侵さればたばたと死んでいった。けれどフンボルトペンギンは温帯域で、さまざまな微生物に囲まれて生きている。だから微生物に対する抵抗力がより強く、感染症にかかりにくい。

このような特徴のために、フンボルトペンギンは極地ペンギンなどに比べて飼育管理がしやすく、繁殖もしやすかった(飼育員や獣医師の地道な努力があったのはもちろんだが、それはほかのペンギンについても同じことである)。そのおかげで、私たちは、日本全国津々浦々で、ペンギンを見ることができるのである。

特徴3:絶滅が懸念されるペンギン

そんなわけで、日本にいると、フンボルトペンギンはありふれた存在だと勘違いしてしまいがちだ。しかし、フンボルトペンギンはペンギン全体のなかでも、とくに絶滅が危惧される種類である。

フンボルトペンギンは、19世紀半ばには100万羽以上生息していたと考えられているが、19世紀後半以降、大幅に減少した。実際の生息数は明らかになっていないが、現在は4万羽ほどと推定されている。国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは準絶滅危惧種に指定され、ワシントン条約では附属書I類(国際商取引の全面禁止)に記載されている。

減少の大きな原因の1つは、巣穴を掘る土壌として利用していたグアノ(海鳥の排泄物が堆積して出来上がった土壌)が、生息地の多くの場所で肥料として採掘されたことだ。グアノの消失したむき出しの岩盤の上では巣穴を作ることができず、繁殖が困難となるし、グアノの採取は、成鳥や雛を直接殺すことはなくても、繁殖成功率を50%も低下させるという(現在ペルーではグアノの採掘を取り締まっており、採掘者の侵入を防ぐ壁を設け、一部には守衛を配置している)。

もうひとつの大きな要因は、魚粉業者との獲物(カタクチイワシ)をめぐる競合である。大規模が魚粉生産業によってカタクチイワシの資源量が減少し、十分に餌を取れなくなったことが、個体数減少に拍車をかけている。また、ペンギン自体が漁船の網にかかって溺死するなどの影響も出ている。

そのほか、一部のコロニーでは野生化した犬、猫、ネズミが脅威となっていたり、火力発電所の建設の影響が懸念されていたりする。沿岸の漁師たちが、ペンギンを直接食用として捕獲することもある(チリでは捕獲を禁じるモラトリアムが制定された)。人間に対して過敏に反応するため、エコツーリズムなどで訪れる人間も警戒し、繁殖率が低下することがあるという。

いずれも人間の活動に起因するものだ。叫ぶ60度の暴風圏に浮かぶ絶海の孤島に生息していたらここまで苛烈な影響は受けなかったかもしれないと思うと、人間の活動しやすい温帯域に生息していたことはこのペンギンにとって不幸だったのではないか、と思わなくもない。

特徴4:神の子に翻弄されるペンギン

フンボルトペンギンは、餌のほとんどを魚類に依存している。魚粉業者によるカタクチイワシの乱獲の影響をストレートに受けてしまうのもそのためだ。

生息地である南米大陸の西側の海には強い寒流であるペルー海流が流れており、沿岸域の海水温は同緯度のほかの海域に比べて7〜8度低い。そのため、この海域に生息するのは、緯度に反して冷たい海を好む魚種である。フンボルトペンギンは、この魚たちを食べている。

したがって、数年に1度、赤道方面から暖かい海水が流入して水温の上がるエルニーニョは、フンボルトペンギンの生活に大きな影響を与えることになる。

エルニーニョが発生すると、普段この海域に生息している魚たちは、より冷たい海を目指して南へ移動する。と、普段は近場の海で餌をとるフンボルトペンギンも、採餌のためにより南、つまりより遠くの海まで泳いでいかなくてはならなくなる。彼らの生活は、神の子の気まぐれに翻弄されているのだ。

エルニーニョが大規模になると、餌を求めて移動する距離が非常に長くなり、餌をとって繁殖地に戻ることができなくなるペンギンが出てくる。そうなると、雛を育てることができず、繁殖は失敗する。エルニーニョがあまりに大規模であれば、育っていたすべての雛が餓死する、ということもある。

親鳥自身も、十分に餌がとれずに餓死しうる。過去に発生した大規模なエルニーニョでは、個体数が70%以上減少したと報告されている。

とはいえ、これ自体は、ペンギンの生態に織り込み済みの行動だ。もとの個体数が100万あれば、エルニーニョによって大量死が起きたとしても、翌年以降リカバーできる。野生動物の暮らしというのは、概してそういうものである。

問題は、前述の要因によって、もとの個体数が極端に減ってしまった、ということである。もとの個体数が少なければ、大規模なエルニーニョが発生した時に、その影響を乗り越えることができないかもしれない(事実、1984年や1998年のエルニーニョはかなり危なかったようである)。近年の気候変動の影響により、エルニーニョの大規模化が予測されており、今後のエルニーニョフンボルトペンギンが乗り越えていけるのかどうかが懸念されている。

まとめ

フンボルトペンギンは、(少なくとも日本においては)動物園などで受ける印象と野生下での実態がもっとも大きく乖離したペンギンかもしれない。生息数が少なく珍しい、だから動物園でも珍しいというのであれば、希少な動物であることを認識しやすいけれど、動物園でもっともポピュラーな動物のひとつであるペンギンが、実は今にも絶滅しそうである、というのはなかなか想像しにくいものである。

日本で家畜の飼料や養殖魚用飼料、有機肥料として用いられる魚粉はチリやペルーから輸入される割合も多い。輸入量は年々減少しているものの、地球の裏側のフンボルトペンギンたちの生活に、私たちも関わっている、ということである(家畜の飼料や肥料に用いられるということは、間接的に私たちの口に入っているということだ)。

www.alic.go.jp

フンボルトペンギンは、様々な面で、私たちと関わりの深いペンギンである。

ありふれているからといって、見過ごすことだけは避けたい、と思う。

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「脱絶滅」に意味があるのか。M・R・オコナー『絶滅できない動物たち』

「人新世」という言葉がある。2000年にドイツの大気化学者ポール・クルッツェンが提唱した、地質時代の一区分を指す言葉である。完新世後の人類の大発展に伴い、農業や工業といった人類の活動が地球環境に大きな影響を与えるようになった時代と定義される。要するに現代のことだ。

いまや手つかずの自然というものは地球上に(少なくとも地上に)ほとんど存在しない。現代の気候変動に人為的要因が認められることを考慮すれば、たとえ前人未到の地であっても、人間の影響が及んでいない場所はない、ということになるだろう。

そのなかで、多くの生物が、絶滅の危機にさらされている。ケニアの古人類学者リチャード・リーキーが1990年代はじめに、「6度目の大絶滅」という言葉で懸念を表明したほどの大量絶滅は今のところ起きてはいないが、多くの生物と生態系に人為的影響が及んでいることは間違いがない。そのため、生物種を人為的な絶滅からいかにして守るかということに、大きな関心が寄せられている。

しかし、種を絶滅から守るための取り組みは、未だ試行錯誤のなかにある。絡みあう要素があまりにも多すぎ複雑すぎて、明快な方針を、とてもではないが出せる状態ではないのだ。種の保存のための取り組みに関して生じるさまざまな問いかけに、人類はまだ、きっぱりとした答えを与えることができていない。

M・R・オコナー著『絶滅できない動物たち』は、そのような、生物種の保全にまつわるさまざまな矛盾や疑問を、実際のいくつかのケースを念入りに取材しつつ掘り下げた本である。著者は、キハンシヒキガエル、フロリダパンサー、ホワイトサンズ・パプフィッシュ、タイセイヨウセミクジラ、ハワイガラス、キタシロサイ、リョコウバト、そしてネアンデルタール人の8つの保全(あるいは復活)プロジェクトを取材し、そこに内在する論点を洗い出していく。

いくつか例を挙げる。

第1章では、キハンシヒキガエルが主人公となる。タンザニアに流れるキハンシ川の、ある滝壺に生息していたカエルの仲間だ。

深刻な電力不足(震災で発電所が被災した後の被災地みたいな電力不足だ)に悩んでいたタンザニアは、ヒキガエルの住むその滝に、水力発電のためのダム建設を計画した。正確にいえば、建設に先立つ環境アセスメントのなかで、キハンシヒキガエルは新種として発見された。豊富な水量を持つ滝の滝壺という極めて特殊で限定的(同じ理由で、タンザニア政府もダムを作るならそこしかない、と考えた)な環境に生息するまさにそこにしか存在しないカエルで、ダムを作ることがそのままカエルの絶滅につながる恐れがあったため、このカエルをどうするのかで議論は紛糾した。最終的にダムの建設は進行し、キハンシヒキガエルは予想通り、数を減らしていった。ここから、ブロンクス動物園などを中心に飼育下繁殖プログラムがスタートする。一部のカエルが動物園へ運ばれ、厳重に管理された無菌室の中で育てられることとなった。しかし、なんとか累代飼育するノウハウが整ったところで、野生個体群をさらなる悲劇が襲う。カエルツボカビ病の蔓延である。これによって、野生のキハンシヒキガエルは完全に絶滅してしまう。

2012年に、飼育下で繁殖したカエルの再導入プログラムがはじまったが、状況は依然として予断を許さない。

この事例が問いかけるのは第一に、地域住民の利益と種の保存が相反するときに、どう判断したらいいのか、ということだ。希少なカエルが住んでいるのだからお前たちは電気を諦めろと言い切れる者は、多分人間ではないだろう。では、どこで折り合いをつければいいのか?

第二に、どの種を守り、どの種を切り捨てるのか、私たちに判断できるのか、ということだ。キハンシヒキガエルは、実は一度目の環境アセスメントでは発見されていなかった。発見されないままだったら、ダムの建設に伴い、人知れず絶滅して話題にもならなかったことだろう。たまたま新たな調査で見つけることができたから、人間はキハンシヒキガエルを保存することにした。種の存続を、そのような偶然に任せてよいものなのか?

第三に、再導入の試みが、本当に保全につながっているのか、ということだ。飼育下で世代を重ねたカエルたちは、遺伝子の多様性がもとより縮小しているし、飼育下という環境により適応したものが無意識的に選抜されているかもしれない。一方で生息地の環境もダムによって変化しており、再導入にあたって、建設前の湿度環境を再現するために人工スプレーシステムが設置されている。多額の予算を費やし(その予算でタンザニアの貧困をいくばくか改善できるかもしれない)、人工的な環境に、人工的なカエルを放すことは、本当に意味のあることなのか?

第2章で取り上げられるのは、フロリダパンサーである。その名のとおりフロリダ州に分布するこのピューマの亜種は、開発により生息地が狭められて個体数が減り、近親交配が進んで繁殖力をほとんど失ってしまい、絶滅の危機に瀕していた。そこで専門家たちは、遺伝的多様性を高め繁殖力を取り戻させるために、テキサス州西部に生息するピューマを数匹、フロリダパンサーの個体群に混ぜることにした。試みは功を奏し、以後、フロリダパンサーの個体数は少しずつ増え、近親交配による障害と思われる特徴もほとんど認められなくなった。

しかし、この解決策は議論をよんだ。テキサス州ピューマとフロリダパンサーとは別の亜種とする考え方も存在したため、その導入はフロリダパンサーに固有の遺伝子プールを撹乱することになるのではないかと懸念されたからだ。テキサスのピューマとの間で生まれた子どもの適応度がもとのフロリダパンサーの個体群の適応度を大幅に上回っていた場合、子どもの遺伝子が支配的となり、もとの個体群の遺伝子を事実上絶滅に追い込んでしまうかもしれない(ゲノム掃引とよばれる)。そうなればむしろ、多様性の喪失に手を貸すことになるかもしれない(事実、テキサスのピューマ由来の遺伝子は、想定を超えて広まっているかもしれないとも推定されている)。一方で、北米のピューマは1亜種にまとめられるという証拠もあり、また、フロリダパンサーとテキサス州ピューマは、人間によって生息地が分断される前には、遺伝子的交流があったと考えられる。とすれば、その交流を「人為的に再現する」ことに、とくに問題はないかもしれない。果たして現在のフロリダパンサーをどう捉えるべきなのか、完全なコンセンサスは得られていない。

この事例では第一に、人為的な個体の移動や「交雑」をどう捉えるかが問われている。テキサス州ピューマを導入したことは、フロリダパンサーにとって救済だったのか、(遺伝的な)絶滅への導きだったのか。そして、人為的な交雑と自然な交雑の境目をどこに引けばいいのか。保全生物学では、自然下での交雑は自然現象なので問題ないが、人為的な交雑は生態系の撹乱なので避けるべき、とされている(場合によっては交雑個体を殺処分、ということもある)。しかし、人間の活動が生息地の環境や気候にさえ影響を与えているなか、「ひょっとしたら人為による環境の変化の影響で交雑するようになったかもしれない(そうじゃないかもしれない)動物」が現れるようになり、自然と人為の境目は曖昧に溶け合っている。どこまでが許容される交雑で、どこからが許容されない交雑なのか。

第二に、減少の大元となった要因、すなわち開発による生息地の分断・縮小や、家畜を守るための害獣駆除が解決されないまま、個体数だけ増やすことの意味が問われている。生息地の条件がもとのままでは、同じように人為的な個体の導入を継続しなければ、遺伝的多様性を維持できないかもしれない。しかし、そのように人の手を借り続けなければいけないようなら、それは自然と言えるのか?

続く章でも、さまざまな問題点が指摘される。人為的に新たな環境に導入されたことで30年で新種に進化したホワイトサンス・パプフィッシュの章では、「人為の影響で生まれた種」をどう遇するのかという点、文化を持つ鳥であるハワイガラスの章では、飼育下繁殖、生殖細胞の保存などで生物学的に保全できたとして、文化が断絶してしまったら、それはもとの動物と同じと言えるのかという点、人間より寿命がはるかに長く、生態に不明な点の多いタイセイヨウセミクジラの章では、人為が生物に与える影響を人間は正確に見積もることができるのか、という点……。難しい問いに、次々とアンダーラインが引かれていく。

しかし答えは、はっきりとは書かれていない。それは私たち一人一人が、考えなくてはならないことだからだ。

人間が地球で生きていくのを諦めない限りは、地球上の限られた資源から、自分たちの取り分を(他の生物たちの取り分とトレードオフで)確保していくことになる。人間の力がここまで大きくなった現代においては、ほかの種が生きる余地を、私たちが意識的に作り出していく必要がある。種の絶滅を防いでも、その種が生きる余地が自然界に残っていなければどうしようもない。また、種を保存する過程で、人間は否応なく、その種に変化をもたらしてしまう。どうあがいても、我々は「自然」に介入し、改変してしまう。そのなかで「種」を不変のものとして保存することに、どれほどの意味があるのか。意味があるとして、それはどのように行われるべきなのか。

それは、気候にさえ影響を与えてしまう(伝説のポケモンかよ)私たちが、永遠の宿題として抱え続けなければならない問いなのだと、本書は教えてくれる。

無菌室の中で生きるキハンシヒキガエルがあだ花とならないためにどうすべきか、考えていきたいと思う。

絶滅できない動物たち 自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

絶滅できない動物たち 自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

 

 

勝手にガイドツアー:いろいろな魚の泳ぎ方(葛西臨海水族園)

実際の水族館の展示を素材にして勝手に架空のガイドツアーを行う企画第1段、今回は葛西臨海水族園の展示を見ながら魚の泳ぎ方について解説してみたいと思います。なお、タイトルの通り内容については私が独自に作っているものであり、葛西臨海水族園公式とは一切関係ありません。

魚はその形態や生態、生息環境に応じてさまざまな泳ぎ方をしますが、基本となるのは、体と尾鰭の両方を左右にくねらせて推進力を得る方法です。例として、「世界の海」の「地中海」水槽にいるブロッチドピカレルをご覧ください。

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後半身と尾鰭を振って泳ぎ、胸鰭を梶として用いていることがわかります。一般的に「魚の泳ぎ方」として思い浮かぶのがこれになるでしょう。タイなど、私たちが目にする魚の多くはこの泳ぎ方をしています。

ちなみに、これを横倒しにすると、ヒラメやカレイなどの泳ぎ方になります。「北海」水槽にカレイの仲間、プレイスがいますのでそちらを見てみましょう。

ヒラメやカレイの仲間は両目が体の片側に移動し、目のある方を上にして体を横に倒して泳ぐため、一見、空飛ぶ絨毯のような特殊な泳ぎ方をしているように見えます。しかしこれを縦にしてみると、さきほどのブロッチドピカレルなどと同じ泳ぎ方をしていることがわかるのではないでしょうか。

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さて、ブロッチドピカレルは沿岸域に生息する魚ですが、同様に沿岸域に生息する魚の中には、障害物の多い環境の中でより小回りを効かせるために、違った泳ぎ方をするものもいます。例として、「インド洋」水槽にいるサザナミハギをご覧ください。 

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体はあまり動かさず、胸鰭をオールのように使って泳いでいることがわかります。動画の中で、この個体は前後に移動しながら水草をつついていましたが、尾鰭ではなく胸鰭を使うことによって、鳥でいうホバリングのような、細やかな動きができるようになります。障害物を避けながら一定の場所にとどまって餌を食べる必要がある場合には、このような泳ぎ方が便利です。ただし、尾鰭を使う場合に比べてスピードは出ません。そのため、普段胸鰭を使って泳いでいる魚も、敵から逃げるときなどはブロッチドピカレルのような「基本型」の泳ぎをすることがあります。

逆に、外洋に生息している回遊魚などは、より高速で効率よく移動するための泳ぎ方をしています。ここで、葛西臨海水族園の主役でもある、「大洋の航海者」水槽のクロマグロに登場してもらいましょう。 

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いかがでしょうか。尾鰭を振って推進力を得るのは「基本型」と同じでも、より体幹のブレが少なく、真っ直ぐ泳いでいることがわかります。クロマグロなどの回遊魚は、力の逃げにくい堅い尾柄と水を捉えやすい大きなハの字型の尾鰭を持つことで、少ない動きで大きな推進力を得られるようになりました。これによって、体のブレを最小限に保ったまま、尾鰭の振りだけで速く力強い泳ぎができるようになっています。獲物の少ない外洋で長い距離を回遊しながら獲物を探し、いざ見つけたら素早く接近して仕留める、そのような暮らしに適した泳ぎ方をしているわけです。

さて、このような「どんな場所で暮らすか」以外の要素が泳ぎ方に影響を与えることもあります。

たとえば、「オーストラリア西部」の水槽にいるウィーディーシードラゴン。タツノオトシゴの仲間であるこの魚は、その名(weedy)の通り、海藻に擬態して暮らしています。

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この魚、潮の流れに流されるようにゆらゆらと動いていきますが、いったいどうやって推進力を得ているかわかるでしょうか。目を凝らしてみると、透明な背鰭と胸鰭を波打つように動かしていることがわかります。

せっかく体の海藻に似せているのに、ほかの魚のように体をくねらせて泳いだりしたら、「魚がいる」ことがバレてしまいますよね。そこでウィーディーシードラゴン(やそのほかのタツノオトシゴの仲間)は、動かす部位を最小限の鰭だけにして、より海藻らしく見せているのです。

このように、魚たちは自らのおかれた条件に合わせてさまざまな泳ぎ方をして、環境に適応しています。葛西臨海水族園にはほかにもたくさんの魚がいて、ここに取り上げていない泳ぎ方をしているものもいますので、ぜひぜひいろいろな水槽を覗いて、魚たちがどんな泳ぎ方をしているか、注意してみてください。

www.tokyo-zoo.net