ペンギンの話

ペンギンのことをつらつら書いていきます。

かばんちゃんのこと。

かばんちゃんの話をする。

「動物が好きだから」というのがけものフレンズに触れるきっかけとなった私だが、実はアニメ第1期の放映時、もっとも注目していたのは「ヒト」であるかばんちゃんだった。

数話を視聴した段階で、やばい、このキャラクターはすごい、と深刻な語彙力低下に襲われていた。

ここでは失われた語彙をなるべく取り戻して、なぜかばんちゃんがすごいと思ったかについて書いてみたい。

けものフレンズ2がはじまったばかりのタイミングで持ち出すにはいささかセンシティブな話題かもしれないが、他意はない。というか、かばんちゃんの素晴らしさを語ることとけものフレンズ2に期待を寄せることはそもそも排反事象ではないので、誤解なさらないようお願いしたい。

さて、私が感じたかばんちゃんの「すごさ」を伝えるためには、まずクロード・レヴィ=ストロースという人物について説明する必要がある。

レヴィ=ストロースは、フランスの社会人類学者である。1908年11月28日に生まれ、2009年10月30日になくなった。西洋の思想史に革命的な影響をもたらした「構造主義」の生みの親とされている。

構造主義がなんであるかを一言で説明するのは私には難しいけれど、「人間」とそれが作り出す「社会」の捉え方を一変させるきっかけとなった思想(正確にいえば方法論)であるとは言える。

構造主義以前、西洋の人々は、「単純で原始的な段階から、次第に複雑で機能的な段階に向かって進歩してゆくもの(そしていずれはひとつの最終形態に到達するもの)」として社会を捉えていた。そして、その最終形態にもっとも近いところに自分たちの社会を置き、東洋、アフリカ、南米などが西洋と異なる社会を形成しているのは、それらが西洋に比べ遅れており、「まだ西洋のレベルに到達できていないから」であると考えていた。このような考え方に基づき、彼らが「未開」と判断した人々の土地を一方的に植民地にしたり、西洋の文化を強要したり、ということをしてきた。

構造主義は、そのような考え方になんの根拠もないことを明らかにした。「未開」とされた社会のなかにも西洋社会に劣らない精神性があり、双方の違いはただ「違い」なのであって優劣は付けれられないこと、「未開」とされた人々の振る舞いも西洋人と同様に理性的な思考に基づいていることを突きつけ、西洋中心主義をくっきり否定してみせた。これによって、「人間とはどんなものか」についての考察の射程を、ぐん、と押し広げることに成功した。近現代の思想史は、構造主義以前と以後に、きっぱりと分かれている。

その中心にいたのがレヴィ=ストロースだった。

レヴィ=ストロースは、「未開」とされた人々の持つ思考が、科学的思考を下支えする数学と同様の論理構造で動いている(たとえば、オーストラリアの先住民社会で成立している親族集団の関係と婚姻のルールは、見事にクラインの四元群を体現している)ことを示し、これを「野生の思考」とよんだ。そして「野生の思考」のうちに人類に普遍的な思考の在り方が含まれており、より進歩的であるとされた近代の思考も、「野生の思考」の特殊な表出の一形態に過ぎないことを示した。

彼の著作には批判も多いし、「乗り越えられるべきテクスト」と捉えられてもいる。けれども彼の仕事が、「人間とは何か」を考えるための土台のひとつになっていることは間違いがない。

私がかばんちゃんを特別視しているのは、そんなレヴィ=ストロースの示した「人間のあり方」を、彼女が体現しているように思うからである。

レヴィ=ストロースの『野生の思考』では、トーテミズムとよばれる一種の信仰形態が中心的に扱われている。

トーテミズムとは、部族や親族など一定の社会集団が特定の動植物(トーテム)と特別な結びつき(その動物が集団の祖先である、その集団の成員とその動物は互いに殺しあわないなど)を持ち、その動植物を祀って儀礼を執行し、崇拝することによって、集団を統合する機能を持つ社会制度のことである。

たとえば、先にも触れたオーストラリアの先住民社会は、半族とよばれる2つの親族集団に分かれており、それぞれの半族に動物(主に鳥類)の名前が付けられている。ある部族では「タカ」と「カラス」の2つの半族に、別の部族では「フクロウ」と「ヨタカ」という2つの半族に分かれる。レヴィ=ストロースによれば、これらの鳥類は、同じカテゴリーに含まれながら対称的に位置づけられているという。タカとカラスはともに肉食であるが、前者は狩りをする鳥であるのに対し後者は腐肉を漁る鳥である、といった具合である(厳密にはカラスは雑食の鳥だが、ここでは目をつぶる)。

これらの先住民社会では、一方の半族に属する者は、婚姻の相手をもう一方の半族から選ぶことになっており、何親等であるかにかかわらず同じ半族の相手とは結婚できない(実際にはもっと複雑であるが、省略)。このような形で2つの半族は互いに対称的な位置にあり、その対称性が「タカとカラス」「フクロウとヨタカ」といった対の動物の対称性と呼応している。

ここで注目したいのは、それぞれの部族が、半族同士の対称性と呼応するような対称関係にある動物種をうまく選び出していることと、その一方で、選び出す動物種の組が部族によって異なる、ということである。

これらのことからは、それぞれの部族が、自分たちの集団を表す動物種を「場当たり的」に選び出しつつも、それらを自分たちの集団が形成する構造に合うように適切に再編成していることがうかがわれる。

先住民社会に存在するこのような思考のはたらきを、レヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」という言葉を用いて表現した。

ブリコラージュとは、その場にあるありあわせの道具や材料を組み合わせて、目の前の状況を解決するために必要なものを作り出すことをいう。具体的にいえば、「現在地を確認するために持っていた道具である地図を、敵の目を眩ませるためのデコイとして飛ばす」とか、「たまたまそこに落ちていた水を汲むための道具であるタライを橇にして敵から逃げる」とか、そういうことを指す。レヴィ=ストロースは、トーテミズムのような信仰や神話もこのようなブリコラージュによって形成されており、ブリコラージュこそ普遍的な人類の知のあり方である、とした。

つまり、レヴィ=ストロースに基づけば、けものフレンズ第1期のストーリーを通じてかばんちゃんがやり続けてきたこと、サーバルが「すっごーい!」と驚嘆し続けてきたことは、ただ頭の良さを示すというだけでなく、人間というものの知のあり方、社会構造の本質を示すものだったことになる。

けものフレンズ第1期は、「ヒトとは何か」がテーマとなっていた。その物語において、「知能の高さ」を示す方法ならほかにもあったなか、かばんちゃんのブリコルール(ブリコラージュを行う人の意)としての有能さを繰り返し提示する方法が選ばれたという点に、私は感嘆せざるをえなかったのである。

付け加えるなら、そんなかばんちゃんが、大きなリュックサックを背負った姿にデザインされていることにも、唸らされた(そもそも名前が「かばんちゃん」であることにも)。

レヴィ=ストロースが一連の思索を得るきっかけとなったのは、アマゾンでのフィールドワークだった。アマゾンで彼が行動を共にしたインディオは、ブリコラージュを軸に生きる移動生活者であった。移動生活をしているため、所持できる家財の量には限度がある。だから持ち運べる限られた道具を、できるだけいろいろな目的に使っていた。そして彼らが森のなかで見つけ、「これはいろいろなことに使えそう」と判断したものをしまっていたのは、背中に背負った負い籠の中だった。かばんちゃんじゃん!(実際には、はじめてかばんちゃんの姿を見たときにはピンとこず、話が進んで、彼女がさまざまな知恵を披露していくのを見るうちに、「ああ、これは」と思ったのであるが)。

このようにかばんちゃんは、現代思想の礎となった構造主義が示す人間理解を、その「元ネタ」レベルから体現したキャラクターなのである。だから私は、「けものフレンズ」という作品の文脈の中に登場する「ヒト」として秀逸であると思い、特別に感じているのだ。

そんなかばんちゃんが、きおくのかなたにであっても生き続けていることが、今はとても嬉しい。

 

P.S.かばんちゃんについて書くべきことを書いたので、明日からはキュルルのことを考えたい。

 

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

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悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

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野生の思考

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はじめての構造主義 (講談社現代新書)

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