ペンギンの話

ペンギンのことをつらつら書いていきます。

グレープ君のこと。

 少し前に、「命の恩人のもとへ毎年通うマゼランペンギン」が話題になった。

gigazine.net

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Joao Pereira de Souza氏が原油にまみれて瀕死となっていたマゼランペンギンを救助し、回復させてから海に帰したところ、翌年からそのマゼランペンギンがde Souza氏のもとを訪ねるようになったそうだ。

この話は美談として広まっているようであるが、気がかりな点もある。このマゼランペンギンのやってくる時期が、毎年6月から翌年の2月までである、という点だ。

マゼランペンギンは、毎年9月から翌年の1〜3月にかけて繁殖・子育てをする。ということは、6月から2月までde Souza氏のもとで暮らしているこのペンギンは、繁殖に参加していない、ということだ。

繁殖は生物の基本的な行動であるから、それを行わない個体を出してしまったことは、de Souza氏の救助活動が完全には成功しなかったことを意味している。人間の活動の影響で瀕死となった、しかも絶滅が危惧されるペンギンを救助したことそのものは賞賛されるべきことであるが、結末によっては、この個体が最初の時点で死んでいたのと変わらなかった、ということになってしまう可能性があることは、留意しておかなければいけないと思う。

さて、このニュースをよんで私が思い浮かべたのは、東武動物公園にいたあのフンボルトペンギンである。

グレープと名付けられていたそのペンギンは、「けものフレンズ」とのコラボレーションで飼育施設内にフンボルトペンギンのフレンズである「フルル」のパネルが立てられると、その前から動かなくなり、「まるで恋をしているみたいだ」と話題になった。このペンギンが、長年連れ添ったつがいの雌を別の若いオスにとられ、独り身となった「切ない」老個体であったことも、注目を集める要因となった。

亡くなってしまったいまとなっては、いや、生きていたとしても、グレープの真意のほどは人間にはわからない。が、ほんとうに恋をしていたのだとして、それは、ただハートフルなお話として消費してしまっていいものだったのか。

正直に申し上げれば、私自身、グレープとフルルの恋物語をイラストのネタに使わせてもらったことがある。二次創作のネタとしてはこれほどおいしいものもなかろう、と思う。

しかし、注意は必要だとも思うのだ。

グレープは、日本でいちばん多く飼われていて、繁殖抑制が行われるほど殖えているフンボルトペンギンの、もう先の長くない個体だった。だから、彼が二次元のペンギンに恋をして、三次元のペンギンとの繁殖を行わなくなっても、個体群維持においてほとんど問題はなかった。だからこそ、動物園としても美談として消費することができた。

けれど、同じことがもし、飼育数が少なく、飼育下個体群の維持につながるような繁殖が実現できていないマカロニペンギンやコウテイペンギンで起きていたら、話は少し違ってくる。とくにマカロニペンギンは高齢化が進んでいるから、せっかくの繁殖期を1シーズンでも逃してしまうと、それは大きな損失となる。パネルは、撹乱因子として即時撤去されるべきものとなっただろう。

もっとも、グレープがフルルに「恋をした」のはつがうべき相手がいなかったからで、適当な相手が見つかっていればそんなことは起こらなかったかもしれない。ならば他種においても同様に、つがいになっている個体には影響を及ぼさず、したがって繁殖への影響もないのかもしれない。けれども、「ちょっと怖いな」という感覚は、どこかに持っていたほうがよいような気がする。

逆に、グレープがほんとうはフルルに恋をしていなかったのだとしたら、私たちは、勝手な物語を彼に押し付けていることになる。それは、「動物のありのままの姿、正しい姿を見せる」という動物園の理念とは真逆の態度だ。実在の動物を物語的に消費してしまわないように代替物として「フレンズ」がいるのに、フレンズがきっかけで実在の動物に勝手な物語を付与してしまっては、「けものフレンズ」の意義自体を揺るがせてしまうだろう。

これは自戒として、少し冷静な目で見つめなおさなくてはいけないなと、私は思っている。