ペンギンの話

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「けものフレンズ2」を第3話まで見て思ったこと

けものフレンズ2」が第3話まで放送されました。

海底に沈んだショーステージ、「海のごきげん」、ヒトを探しているフレンズがシルエットで登場するなど、物語の転換を予感させる要素が登場し、これらがどのようにつながっていくのか気になるところです。

ただ、正直に申し上げると、「けものフレンズ2」を視聴していて、私は違和感を感じた箇所がいくつかありました。

1つめは、第1話のサーバルの登場シーンで、1匹目のセルリアンを倒したサーバルが笑みを浮かべていたところ。

セルリアンが出たと伝えられて現場に駆けつけてみると、相棒のカラカルが挟み撃ちにあって危険に晒されている。それを見て助けなければと思い、セルリアンに攻撃を加える。

そのような状況であれば、もっと真剣な、あるいは攻撃的な表情をしているほうが自然です。歯を食いしばらなければ、拳にも力は入りません。歯を食いしばり、力を込めてセルリアンを打ち砕く。撃破を確認したのち、カラカルのほうを見て、無事であることを確かめる。そしてホッとする。笑顔は、それから出てくるものだと思うのです。

それにもかかわらず、サーバルは、セルリアンを打ち砕き、顔を上げたときにもう笑っていた。ツイッターのタイムラインでも、「圧倒的な強キャラ感」などとそこに反応したツイートが流れていましたが、やはりここには、精神的な異質さを感じずにはいられません。

2つめは、第3話のバンドウイルカが、カリフォルニアアシカの投げたボールにキスをしたところ。

水上に吊り下げられたボールを水面からジャンプして吻の先でつつく、現実のイルカショーでよく見られるパフォーマンスを再現したシーン(作中のバンドウイルカは、かつてジャパリパークでショーアニマルとして活躍していたようです)ですが、このようなパフォーマンスでイルカが吻を使うのは、それが身体のいちばん前方にあるからです。吻を使って海底の砂を掘り起こし、獲物を探すこともあるように、身体のいちばん前にある吻を、イルカは「道具」として使います。ジャンプしてボールをつつくイルカも、同じように道具として、吻でついているに過ぎません。

とすれば、人型の身体をしたフレンズとなった彼女は、同じ目的のために、ヒトの身体のなかでもっとも使えそうな場所を使うことになるでしょう。手ではたいてもいいし、ヘディングしてもいい。そのほうが、フレンズの身体の運用法としては理に叶う(実際、牙がメインウェポンであるイヌ科動物のフレンズたちも、フレンズの身体でセルリアンと戦うときは腕を使います)。はじめは口を使おうとしたのだとしても、唇を切ってすぐ止めるような気がします。しかし、作中のバンドウイルカは、空中に放られたボールに積極的にキスをしにいく。唇はおろか、前歯が心配なくらいです。ここも、なぜそこまでして不自然な動きを、と思わざるをえません。

3つめは、同じく第3話で、バンドウイルカのパフォーマンスを真似ようとしたサーバルが、ボールを「猫の手」でちょんとつついたところ。毒ヘビの頭に百烈パンチを叩き込んで気絶させ捕食する動物から生まれ、第1話で力強くセルリアンを殴り飛ばしていたフレンズが、まるで非力をアピールするかのような仕草でボールにソフトタッチするのは、やはり違和感があります。かばんと旅をしていた個体ならもちろんのこと、ネクソンアプリ版に登場する2代目、さらには、ゲームが趣味でヒトの文化に多く触れていた初代サーバルからも、想像しにくい姿です。スパイクのようにボールを打ち抜き、カラカルから「加減しなさいよバカ」と突っ込まれているほうが、少なくともこれまでのサーバルらしい。

これらの描写に共通するのは、いずれも人形的な「可愛らしさ」がやたら強調されているという点です。

きょうび流行りの女子高生アニメも「かわいい」がウリのひとつでしょうが、このような描写はしないでしょう(「ゆるキャン△」の各務原なでしこや「宇宙よりも遠い場所」の玉木マリならば、多分スパイクを打つと思います。なでしこは笑顔でセルリアンを倒しそうですが、リンを心配するほうがやっぱり先でしょう)。子ども向けのプリキュアであっても、「こういうことをするやつ」はちょっとムカつくキャラとして描かれるのではないでしょうか。それらを上回って、「けものフレンズ2」では可愛らしさが、正確に言えば「わざとらしい可愛らしさ」が、強調して描かれている。

これは、「公式が視聴者を舐めている」とか、そういう話では収まらないと思います。

素人が作ったアニメならば、「スベってるよ」と片付ければよいのでしょう。しかし、制作にあたっているのは多くのヒット作を手がけている木村隆一監督であり、ワンピースの脚本にも起用されているますもとたくや氏です。実績のあるプロが作っている。そのような人々が、「無能さ」ゆえにこのような不自然な描写をするというのは、ちょっと考えにくい。とくに、特定の個体だけでなく、歴代サーバルが共通して持っている特徴を変えるというのは、意図があって、わざとそうしている、と考えたほうが自然です。

とすれば、その意図は何か。

けものフレンズ2」は、ロバがパン屋を営んでいたり、イルカやアシカが「ショーのルール」に従って動いていたりと、フレンズたちにヒトの影響が色濃くみられることも特徴であり(ロバに屋台を引かせて商売する「ロバのパン屋」はかつて実際に存在しました)、それが主題なのではないか、とも目されています。フレンズたちの過剰な可愛さも、あるいはそれに関連してのことなのかもしれません。

動物に「可愛さ」を押し付けるのはヒトの基本的な性質のひとつとさえいえます。先日、私は上野動物園に行ってきましたが、そこのホッキョクグマの展示の前には、クマを見て「可愛い」という人たちがたくさんいました。陸上最大の肉食動物であり、現実的な話をすれば吉田沙保里ジェイソン・ステイサムも一撃で殺すことのできる相手を前にして、「可愛い」という。ヒトは、少なくとも現代人は、そこまで、「動物を可愛いと思いたがる生き物」です。そして動物園は、動物を囲いの中に封じることによって、本来であれば命の危険を感じる相手さえも「可愛い」と思うこと(あえて強い言葉を使えば、野生動物に対して驕ること)を可能にする場所なのです。現代の動物園はそういった驕りを解除することを使命としていますが、動物園の起源には、そのような驕りが含まれていました。そしてそのような驕りが、「チンパンジーの子どもを母親から引き離し、ヒトのコスプレをさせて舞台に立たせる」ような虐待的なショーを産んでもきました。

フレンズたちの過剰な「可愛さ」は、そのような、「檻の中の野生動物に向けるヒトの眼差し」「動物園の闇」を表象しているのではないかと、現時点では私は考えています(第1期の動物紹介で、檻の中にフレンズを座らせる」という演出をしたように)。フレンズはいわば、ヒトのそのような眼差しを生身の動物から逸らす形代のようなものですから、それならば使いかたとしてもうまい。

まだ3話、作品の全体像もろくにわからない状態で推察に願望を重ねたようなものなので、当たっているかはわかりません。というか、外れている公算が大きい。でも、もし「そう」であれば、「けものフレンズ2」はこれまた動物園史に残る怪作になるかもしれないな、と思っています。