ペンギンの話

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「脱絶滅」に意味があるのか。M・R・オコナー『絶滅できない動物たち』

「人新世」という言葉がある。2000年にドイツの大気化学者ポール・クルッツェンが提唱した、地質時代の一区分を指す言葉である。完新世後の人類の大発展に伴い、農業や工業といった人類の活動が地球環境に大きな影響を与えるようになった時代と定義される。要するに現代のことだ。

いまや手つかずの自然というものは地球上に(少なくとも地上に)ほとんど存在しない。現代の気候変動に人為的要因が認められることを考慮すれば、たとえ前人未到の地であっても、人間の影響が及んでいない場所はない、ということになるだろう。

そのなかで、多くの生物が、絶滅の危機にさらされている。ケニアの古人類学者リチャード・リーキーが1990年代はじめに、「6度目の大絶滅」という言葉で懸念を表明したほどの大量絶滅は今のところ起きてはいないが、多くの生物と生態系に人為的影響が及んでいることは間違いがない。そのため、生物種を人為的な絶滅からいかにして守るかということに、大きな関心が寄せられている。

しかし、種を絶滅から守るための取り組みは、未だ試行錯誤のなかにある。絡みあう要素があまりにも多すぎ複雑すぎて、明快な方針を、とてもではないが出せる状態ではないのだ。種の保存のための取り組みに関して生じるさまざまな問いかけに、人類はまだ、きっぱりとした答えを与えることができていない。

M・R・オコナー著『絶滅できない動物たち』は、そのような、生物種の保全にまつわるさまざまな矛盾や疑問を、実際のいくつかのケースを念入りに取材しつつ掘り下げた本である。著者は、キハンシヒキガエル、フロリダパンサー、ホワイトサンズ・パプフィッシュ、タイセイヨウセミクジラ、ハワイガラス、キタシロサイ、リョコウバト、そしてネアンデルタール人の8つの保全(あるいは復活)プロジェクトを取材し、そこに内在する論点を洗い出していく。

いくつか例を挙げる。

第1章では、キハンシヒキガエルが主人公となる。タンザニアに流れるキハンシ川の、ある滝壺に生息していたカエルの仲間だ。

深刻な電力不足(震災で発電所が被災した後の被災地みたいな電力不足だ)に悩んでいたタンザニアは、ヒキガエルの住むその滝に、水力発電のためのダム建設を計画した。正確にいえば、建設に先立つ環境アセスメントのなかで、キハンシヒキガエルは新種として発見された。豊富な水量を持つ滝の滝壺という極めて特殊で限定的(同じ理由で、タンザニア政府もダムを作るならそこしかない、と考えた)な環境に生息するまさにそこにしか存在しないカエルで、ダムを作ることがそのままカエルの絶滅につながる恐れがあったため、このカエルをどうするのかで議論は紛糾した。最終的にダムの建設は進行し、キハンシヒキガエルは予想通り、数を減らしていった。ここから、ブロンクス動物園などを中心に飼育下繁殖プログラムがスタートする。一部のカエルが動物園へ運ばれ、厳重に管理された無菌室の中で育てられることとなった。しかし、なんとか累代飼育するノウハウが整ったところで、野生個体群をさらなる悲劇が襲う。カエルツボカビ病の蔓延である。これによって、野生のキハンシヒキガエルは完全に絶滅してしまう。

2012年に、飼育下で繁殖したカエルの再導入プログラムがはじまったが、状況は依然として予断を許さない。

この事例が問いかけるのは第一に、地域住民の利益と種の保存が相反するときに、どう判断したらいいのか、ということだ。希少なカエルが住んでいるのだからお前たちは電気を諦めろと言い切れる者は、多分人間ではないだろう。では、どこで折り合いをつければいいのか?

第二に、どの種を守り、どの種を切り捨てるのか、私たちに判断できるのか、ということだ。キハンシヒキガエルは、実は一度目の環境アセスメントでは発見されていなかった。発見されないままだったら、ダムの建設に伴い、人知れず絶滅して話題にもならなかったことだろう。たまたま新たな調査で見つけることができたから、人間はキハンシヒキガエルを保存することにした。種の存続を、そのような偶然に任せてよいものなのか?

第三に、再導入の試みが、本当に保全につながっているのか、ということだ。飼育下で世代を重ねたカエルたちは、遺伝子の多様性がもとより縮小しているし、飼育下という環境により適応したものが無意識的に選抜されているかもしれない。一方で生息地の環境もダムによって変化しており、再導入にあたって、建設前の湿度環境を再現するために人工スプレーシステムが設置されている。多額の予算を費やし(その予算でタンザニアの貧困をいくばくか改善できるかもしれない)、人工的な環境に、人工的なカエルを放すことは、本当に意味のあることなのか?

第2章で取り上げられるのは、フロリダパンサーである。その名のとおりフロリダ州に分布するこのピューマの亜種は、開発により生息地が狭められて個体数が減り、近親交配が進んで繁殖力をほとんど失ってしまい、絶滅の危機に瀕していた。そこで専門家たちは、遺伝的多様性を高め繁殖力を取り戻させるために、テキサス州西部に生息するピューマを数匹、フロリダパンサーの個体群に混ぜることにした。試みは功を奏し、以後、フロリダパンサーの個体数は少しずつ増え、近親交配による障害と思われる特徴もほとんど認められなくなった。

しかし、この解決策は議論をよんだ。テキサス州ピューマとフロリダパンサーとは別の亜種とする考え方も存在したため、その導入はフロリダパンサーに固有の遺伝子プールを撹乱することになるのではないかと懸念されたからだ。テキサスのピューマとの間で生まれた子どもの適応度がもとのフロリダパンサーの個体群の適応度を大幅に上回っていた場合、子どもの遺伝子が支配的となり、もとの個体群の遺伝子を事実上絶滅に追い込んでしまうかもしれない(ゲノム掃引とよばれる)。そうなればむしろ、多様性の喪失に手を貸すことになるかもしれない(事実、テキサスのピューマ由来の遺伝子は、想定を超えて広まっているかもしれないとも推定されている)。一方で、北米のピューマは1亜種にまとめられるという証拠もあり、また、フロリダパンサーとテキサス州ピューマは、人間によって生息地が分断される前には、遺伝子的交流があったと考えられる。とすれば、その交流を「人為的に再現する」ことに、とくに問題はないかもしれない。果たして現在のフロリダパンサーをどう捉えるべきなのか、完全なコンセンサスは得られていない。

この事例では第一に、人為的な個体の移動や「交雑」をどう捉えるかが問われている。テキサス州ピューマを導入したことは、フロリダパンサーにとって救済だったのか、(遺伝的な)絶滅への導きだったのか。そして、人為的な交雑と自然な交雑の境目をどこに引けばいいのか。保全生物学では、自然下での交雑は自然現象なので問題ないが、人為的な交雑は生態系の撹乱なので避けるべき、とされている(場合によっては交雑個体を殺処分、ということもある)。しかし、人間の活動が生息地の環境や気候にさえ影響を与えているなか、「ひょっとしたら人為による環境の変化の影響で交雑するようになったかもしれない(そうじゃないかもしれない)動物」が現れるようになり、自然と人為の境目は曖昧に溶け合っている。どこまでが許容される交雑で、どこからが許容されない交雑なのか。

第二に、減少の大元となった要因、すなわち開発による生息地の分断・縮小や、家畜を守るための害獣駆除が解決されないまま、個体数だけ増やすことの意味が問われている。生息地の条件がもとのままでは、同じように人為的な個体の導入を継続しなければ、遺伝的多様性を維持できないかもしれない。しかし、そのように人の手を借り続けなければいけないようなら、それは自然と言えるのか?

続く章でも、さまざまな問題点が指摘される。人為的に新たな環境に導入されたことで30年で新種に進化したホワイトサンス・パプフィッシュの章では、「人為の影響で生まれた種」をどう遇するのかという点、文化を持つ鳥であるハワイガラスの章では、飼育下繁殖、生殖細胞の保存などで生物学的に保全できたとして、文化が断絶してしまったら、それはもとの動物と同じと言えるのかという点、人間より寿命がはるかに長く、生態に不明な点の多いタイセイヨウセミクジラの章では、人為が生物に与える影響を人間は正確に見積もることができるのか、という点……。難しい問いに、次々とアンダーラインが引かれていく。

しかし答えは、はっきりとは書かれていない。それは私たち一人一人が、考えなくてはならないことだからだ。

人間が地球で生きていくのを諦めない限りは、地球上の限られた資源から、自分たちの取り分を(他の生物たちの取り分とトレードオフで)確保していくことになる。人間の力がここまで大きくなった現代においては、ほかの種が生きる余地を、私たちが意識的に作り出していく必要がある。種の絶滅を防いでも、その種が生きる余地が自然界に残っていなければどうしようもない。また、種を保存する過程で、人間は否応なく、その種に変化をもたらしてしまう。どうあがいても、我々は「自然」に介入し、改変してしまう。そのなかで「種」を不変のものとして保存することに、どれほどの意味があるのか。意味があるとして、それはどのように行われるべきなのか。

それは、気候にさえ影響を与えてしまう(伝説のポケモンかよ)私たちが、永遠の宿題として抱え続けなければならない問いなのだと、本書は教えてくれる。

無菌室の中で生きるキハンシヒキガエルがあだ花とならないためにどうすべきか、考えていきたいと思う。

絶滅できない動物たち 自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

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