ペンギンの話

ペンギンのことをつらつら書いていきます。

ペンギン思い出話

私がペンギンを好きになったのは、小学生の頃である。きっかけは、日本のペンギン研究の第一人者であった青柳昌宏先生の本『ペンギンたちの不思議な生活』(講談社)を読んだこと。講談社ブルーバックスという堅めのレーベルから出版され、学術的な正確さが追求されながら、一方で青柳先生流のユーモアにも溢れたその本を読んで、私は海を飛ぶ不思議な鳥たちに魅せられることになった。

この本で印象的だったのは、解説のための図版とは別に、アクセントとしてとても可愛らしいアデリーペンギンのイラストが多用されていたことだ。ほんものよりもやや頭身が高めですらりとしたイラストだったのだけれど、そのデフォルメ具合や豊かな表情、しぐさがとても魅力的だったのだ。とくに「恍惚のディスプレイ」をしているイラストで、アデリーの顎の付け根の、羽毛の色が黒から白へ切り替わるラインがハートマーク型にディフォルメされているのが(もともとハートマークに近いのだが)素敵で、お気に入りだった。

イラストがツボにはまった私は、その後、ひたすら、そのイラストのコピーに明け暮れるようになった。休み時間に自由帳に描くのみならず授業中にもノートの片隅に描きまくり、身の回りのあらゆる紙がペンギンまみれになった。当時の自分の感覚としては、ほぼ完コピできたと自負していた。

あるとき、教室の机でそのペンギンの絵を描いていた私に、隣の席のクラスメートが「何を描いているの?」と声をかけてきた。星のカービィ四コマ漫画を描いて友人に見せるなど、人に自分の絵を見せることに物怖じしないタイプの子どもではあったのだが、そのときは妙に気恥ずかしくて、おずおずとノートを差し出したことを覚えている。動物とはいえ、描いているのが「求愛」だったからかもしれない。思春期に足を踏み入れる頃だったからね。わりと仲が良く、休み時間に一緒に過ごすことも多かった相手だけに、変に思われないか、と思ったような気がする。ペンギンのことを知らなければ、わかるわけもないのであるが。

はたして、私の絵を見たクラスメートは、感心したような顔をして、「あ、かわいい」と言った。その言葉を聞いて、私はほっとした。それに、ペンギンの絵を人に見せるのははじめてだったから、その「かわいい」は、とても心に響いた。借り物の絵とはいえ、カービィみたいなキャラクターに頼らない絵が褒められて、なんだか自分が認められたような気がしたのだ。だから、そのクラスメートが、「私にも描いてよ」と言ってきたとき、私は一も二もなく頷いた。

人に見せるのではなく、はじめて人に贈る絵だ。お父さんやお母さんに贈りなさいと、先生に描かされる絵とは違う。本人から描いて欲しいと頼まれて、描いてあげたいと思って描く絵だ。気合いを入れて、私は彼女のノートにペンギンの絵を描いた。いつもの倍は、時間をかけたような気がする。細かいところまでこだわった。そして、ノートをクラスメートに返した。描き上がった絵を見て、クラスメートは、「やっぱりかわいい。ありがとう」と笑った。とても素敵な笑顔だった。ほかのクラスメートからその絵について尋ねられた彼女が、「あ、これ◯◯ちゃん(私の本名)が描いてくれたんだよ。いいでしょ?」と自慢してくれたことは、とても誇らしかった(残念ながら、顧客は増えなかったけど)。

小学校卒業を待たずして転校していったそのクラスメートと再会、というか再び「つながった」のは、社会人になってすぐのことである。フェイスブックに、彼女から友達申請が届いたのだ。

でも、はじめてそれを通知欄で確認したとき、私は、その相手が彼女であるとすぐには認識できなかった。なんか、知らない人から申請が来てるな、と思い、たぶん1ヶ月くらい、そのまま放置してしまっていた。申請と一緒に届いていた「名前を見つけて懐かしくなったから」と記されたメッセージを読んではじめて、知り合いかもしれないと思い至り、ようやく、彼女であることに気がついた。気づくのが遅れたのは、私が知っているのとは異なる名前が表示されていたからだ。彼女は結婚して、苗字が変わっていたのだ。

ああ、なるほど、とそのとき私は思った。1浪して入った6年制大学を卒業した年齢だ。そりゃクラスメートが結婚もするだろう。同じように懐かしさは感じたけれど、心に波風が立つことはなかった。子どもの頃の話だ。感情を乱すにはもう時間が経ちすぎていたし、よくも悪くも私も大人になっていた。ただ、やっぱり違う世界に住んでいる人だったのだな、とだけ思った。

あの頃から、ペンギンの趣味もずいぶん変わった。当時は青柳先生最推しのアデリーペンギンがそのまま推しペンギンだったけれど、今はジェンツーペンギンだし、ペンギンよりもペンギンのフレンズばかり描くことになろうとは思いもしなかった。私のなかのペンギンブーム自体、間欠的なものでもある。時は流れ、世界は変わる。ただ、今でもペンギンを見るときに、頭の片隅に当時のことがうっすら浮かぶことがある。

とりあえず、フェイスブックでそのクラスメートが抱いている子どもが、ペンギン好きに育ってくれたら私は嬉しい。