ペンギンの話

ペンギンのことをつらつら書いていきます。

かばんとキュルルとサンドスター

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6月24日まで池袋パルコで開催されている「けものフレンズ」のコンセプトデザイン展「けものフレンズわーるど」に行ってきました。作中では推測するしかなかった設定を確かめることができたり、制作過程の一端を知ることができたりととても充実した時間を過ごすことができました。

今日は、「けものフレンズわーるど」で知った設定なども踏まえて、あらためて「けものフレンズプロジェクト」について考えてみたことを書きたいと思います。「けものフレンズわーるど」でのみ明かされている情報についても触れますので、まだ行ってないよ、という方はご注意ください。

 なぜかばんとキュルルの2人が必要だったのか

まずは、アニメ『けものフレンズ2』に登場する2人の「ヒト」、かばんとキュルルについて書いていきたいと思います。

けものフレンズ2』においてかばんが主人公から降板し、キュルルという新しいキャラクターが登場したこと、そのキュルルがかばんとは大きく異なるキャラクターであったこと、また、かばんが前作『けものフレンズ』とは異なった形で登場したことについては、否定的な声も多く聞こえてきました。けれど私は、この2人、正確にいえば、『けものフレンズ2』においてそれぞれが担っていたような役割を持つ「ヒト」が同時に登場することが、「けものフレンズプロジェクト」においては必要だったのではないか、と考えています。「けものフレンズプロジェクト」が動物と動物園に関心を持ってもらうことを目的のひとつとしたプロジェクトであること、そして、動物園が主要なメッセージのひとつとして発信する環境問題に触れたとき、とくに純真な子どもたちが陥りがちな思想上の「罠」が存在することがその理由です。

月刊ニュータイプ」2019年4月号のインタビューで『けものフレンズ2』の脚本をてがけたますもとたくや氏が述べているように、今、この地球上に「ヒトの影響のまったくおよんでいない動物」はほとんど存在しません。いわゆる地球温暖化が人為的要因によって進行しているという証拠が集まりつつある現代では、「動物なんかに指一本触れたことのない文字通り温室育ちの少年」のような仮想的なヒトでさえ、動物に、あるいは自然環境に影響を与えずに生きていくことは不可能です。もっと根源的な話をすれば、質量保存の法則が、否応なくヒトと動物を結びつけます。ヒト1人が生きていくためには、エドワード・エルリックの言葉を借りるなら《水35ℓ、炭素20kg、アンモニア4ℓ、石灰1.5kg、リン800g、塩分250g、硝石100g、イオウ80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素…》を確保していかなくてはなりませんが(これはかなりざっくりした説明ですけどね)、ヒトがそれだけの物質を確保するということは、ほかの動物の取り分がそれだけ減るということを意味します。地球上の物質がほぼ有限である以上、体重60kgのヒト1人の命は、体重4kgのフンボルトペンギン25羽分の命と「等価交換」になるのです。

そんなふうに、動物たちに影響を及ぼさずにはいられない私たちが、現実に動物たちの絶滅につながるような深刻な事態をあちこちで引き起こしている。どうやって解決したらいいのかわからないようなことも少なくありません。となると、考えたくもなるわけです。「ヒトなんて絶滅してしまったほうが、動物にとって、地球にとっていいことなんじゃないか?」と。現在公開されている映画「ゴジラ キングオブモンスターズ」もそのような思想にとらわれた環境テロリストが暗躍する作品ですし、現実にそれを口にする過激な人々も存在します。逆に、そう考えてしまうことの精神的ストレス、問題の大きさに対する自らの無力さから逃れるために、環境問題を「みないふり」してしまう「エコフォビア」という状態に陥ってしまう人も存在します。これらの反応は、いずれにせよ自然環境を適切に保全し、ヒトと動物との適切な関係を築いていくことの妨げとなります。

けものフレンズ』および『けものフレンズ2』の物語は、このような考え方に対するアンチテーゼであり、その毒性を中和する役割を持っていると私は考えています。

けものフレンズわーるど」において、『けものフレンズ2』は営業終了からおよそ2000年経過し、ヒトも滅亡してしまった時代のジャパリパークを舞台としていることが明かされました。パークどころか地球からヒトがいなくなっても、パーク内では、動物とフレンズだけで綺麗に生態系が成り立っていることがわかります。博士と助手は自分たちだけで料理が作れるようですし、小説版では、ロバの売っている食べ物を「料理の得意なフレンズが作った」と明記されています。フレンズたちは自立していて、ヒトがいなくても大丈夫な模様です。『けものフレンズ』の時代設定については明言はありませんでしたが、おおむね同様の状況にあると考えてもよいでしょう。

けものフレンズ』『けものフレンズ2』では、そんな、「ヒトの存在が不可欠ではないジャパリパーク」において、かばんとキュルルという2人の「ヒト」が、それでも自分たちにできることを探し、結果的に大小さまざまな「よい影響」をフレンズたちにもたらしていきます。「ヒトなんていないほうがいいのでは」と絶望する人(おそらくは子どもたち)に対して、「それは違う。私たちにもできることはあるんだ」と励ますような物語になっているのです。そしてそれは、動物園が伝えたいと思っているメッセージのひとつにほかなりません。これらの作品に「ヒト」が登場しなければならなかった大きな理由はここにあるのだと思います。

それならかばんだけでよかったのではないか、と考える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここまで申し上げたプロジェクトの「役割」からいえば、キュルルこそ、登場させなければならなかったキャラクターであると私は考えています。

かばんは、ミライの毛髪から生まれたヒトのフレンズです。「けものフレンズわーるど」では、ある人物(おそらくミライ)の「想い」が根幹にある存在とされており、『けものフレンズ』では暫定パークガイドとして、パークを襲った深刻なシステムエラーの解消に奔走しました。『けものフレンズ2』ではセルリウムやサンドスターの研究をし、キュルルを導くような役割を担っています。これらのことから、かばんはどちらかといえば「ジャパリパークのスタッフ」としての役割を持って生まれた存在であると考えられます。純粋なヒトではなく、「ヒトのフレンズ」であるという設定も、彼女が「パーク側の存在である」ことを印象付けます。

一方でキュルルは、営業時のパークに遊びにきた子どもをセルリアン女王がコピーして誕生した「ヒト」であり、動物園のお客様、来園者としてのアイデンティティーを付与されています。かばんが誕生翌日(?)からセルリアンと戦うサーバルを援護し、暫定パークガイドとなった後には決死の覚悟でセルリアンにとりこまれたサーバルの救出に臨んだのに対し、キュルルは一方的に庇護される場面が多く、初期のかばんに比べても「弱い」存在として描かれています。

では、「動物園」であるジャパリパークが、また、動物園に関心を持ってもらうための「けものフレンズプロジェクト」がより強いメッセージを投げかけるべき相手はどちらか。言うまでもなく、「来園者」のほうでしょう。「けものフレンズプロジェクト」が発信したかった(あるいはするべき)メッセージは、キュルルのような弱い「来園者」であっても、動物のためにできることがある、ということなのではないかと思います。だからこそ、反発を招くとしても、彼を登場させたのでしょう。「ヒトのフレンズ」であるかばんと異なり、女王から生まれつつも完全な「ヒト」とされている点も、彼に特別な役割が付与されていることを思わせます。

もちろん、かばんの存在が重要ではない、というわけではありません。彼女もまた、「けものフレンズプロジェクト」においてかけがえのない存在です。ジャパリパークが現実の動物園のメタファーである以上、スタッフ的な存在は不可欠ですし、「動物園にできること」はすべて、動物園のスタッフによって担われているものです。ヒトの滅亡した世界に残された「パークスタッフ」(ベースはパークガイドなのでしょうが、やっていることは飼育員、ガイド、キュレーター、エンジニアと多岐にわたっていますね)として彼女になにが成しうるかということは、現実の「動物園にできること」を写す鏡となることでしょう。逆に言えば、スタッフの心が折れたとき、動物園として試合終了になるわけで、「ヒトのフレンズの消滅条件」はその意味では理にかなっているように思います。

動物園には、来園者とスタッフという2種類のヒトがいます。そうである以上、「けものフレンズ」の物語は、かばんだけでも、キュルルだけでも成立しない。パークスタッフとしてのかばんと、来園者としてのキュルルが、どちらも必要だったから、このような形になったのだと思うのです。

サンドスターの意味するもの

続いて、サンドスターについて書いていきたいと思います。

ひょっとしたら前回のコンセプトデザイン展でも開示されていたのかもしれないのですが、「けものフレンズわーるど」でのサンドスターについての記述で、私は驚かされました。なにしろサンドスターが、「セルリアンの死体」であるというのですから。

けものフレンズわーるど」では、セルリアンのもとになる物質(セルリウムと呼称されているもの)を物質Aと仮称していました。物質Aには触れたものの特徴をコピーする能力があり、コピーによって物質A+(セルリアンと呼称されているもの?)に変化します。A(およびA+)は新鮮なうちは黒く、劣化するほどに虹色に変化し、虹色になるとコピー能力を失うそうです。劣化したAおよびA+が機能停止、風化したものがサンドスター、というわけです。外力によって強制的に機能停止させられた場合もサンドスターに変化する。『けものフレンズ』に登場した火山にはセーバルと四神の力でアンチセルリウムのフィルターが張られている(これは前のコンセプトデザイン展でも書いていた)ため、噴火のたびにそのフィルターによってAが破壊され、サンドスターに変化して噴き出しているのだそうです。

これは、なんとも衝撃的な設定でした。突き詰めれば、フレンズはみな、セルリウムから生まれていることになるわけですから。

ただ、納得もしました。ジャパリパークが動物園なら、メタファーとしては優れていると思ったからです。

動物園が、その起源に闇を抱えていることはご存知の方も多いかと思います。中世の動物コレクションや近世のメナジェリーまで遡るまでもなく、近代的な動物園、Zoological parkと呼称されるものの発展それ自体、分類し、整理し、管理することで自然を支配しようとする、帝国主義的、人間中心主義的な野心にドライブされたものでした。自然についての知識を一般に広めるという効果はあったものの、動物たちはあくまで「生きた標本」とみなされていました。博物館的な網羅性が重視されたため、現代のように動物の生態を反映した群れ飼育などが行われることもなく、1種につき1頭といった展示が行われ、飼育下繁殖なども積極的には考慮されず、いなくなったら新しく捕まえてくればいい、と考えられていました。設立当初はコレクションを揃えるために巡回メナジェリーから動物を購入するようなこともありました。現代的な意識を持つ動物園人もいましたが、環境保全、種の保存、動物福祉といった概念が力を持つようになるのは、近代動物園の成立よりもずっと後のことです。

とはいえ、そのような時代を経なければ、こうして動物園で海外の動物の姿を見て楽しむことのできる今はありません。野生からの簒奪はやめよう、飼育下繁殖でやっていこうと言えるのは、すでに野生動物が手元に存在しているからです。当たり前ですが、はじめから飼育下にいる野生動物などは存在しないわけですから。親から引き離してゴリラの子どもを捕まえてくるような、そんな積み重ねの果てに、今の動物園はあります。私たちは動物園で、動物に対する親しみや、自然に関する知識といった光を享受することができます。しかしその光は、闇の中から生まれたものなのです。

ジャパリパークで人々を楽しませてくれるフレンズたちが、フレンズに、さらにはヒトに害をなす(カコ博士は重体となりましたし、サーバルの捨て身の救出がなければ、キュルルのもとになった子どもも死んでいたかもしれません)悪しきもの、セルリアンから生まれる、というのは、現代の動物園と、私たちの関係をよく表しているのではないかな、と思います。

 

以上が、「けものフレンズわーるど」を見て考えたことです。全体として、「けものフレンズプロジェクト」は、SF的な設定の中に、なんとか動物園をとりまくものを落としこもうとしてくれているのかな、と感じました。今後の作品として、まだ表に出ていないことを結実させられるのかどうかはわからないですが、頑張って欲しいなぁ、と思っています。

art.parco.jp

 

動物園の文化史―ひとと動物の5000年

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