ペンギンの話

ペンギンのことをつらつら書いていきます。

「日本でここだけ」の2つの意味。

私たちが動物園に出かける理由はいくつかあるけれど、そのなかでも大きいもののひとつに、「珍しい動物が見たい」があると思う。普段なかなか見ることのできない珍しい動物を目にすると興奮するし、「見られるよ」と聞けばその動物園に行ってみたくなる。展示内容ではなく展示動物のリストだけを見せられたら、「フンボルトペンギンの見られる動物園」より、「コウテイペンギンの見られる動物園」のほうに、どうしても心は傾いてしまう。

なかでも、「ここでしか見られない」は殺し文句だ。その一言だけで、「よし、見に行ってやろうじゃないか」と思わされる。

だからインターネット上でも、「この動物はこの施設でしか見られません」という文句が、その施設のアピールポイントとして強調されることは多い。施設が自ら喧伝する場合も、ファンが喧伝している場合もある。

でも、注意しなければいけないのは、「日本でここだけ」という言葉には、2通りの意味があるということである。

ひとつは、前向きな意味だ。新しく日本に連れてきたとか、ほかではできなかった飼育下繁殖に成功しているといった理由で、「日本でここだけ」になっている場合である。

たとえば埼玉県こども動物自然公園には、「日本でここだけ」のプーズー(世界最小のシカの仲間)が展示されている。これは、フンボルトペンギンの生態展示施設「ペンギンヒルズ」の建設をきっかけにフンボルトペンギンの生息地であるチリのサンチアゴ・メトロポリタン公園と希少動物の保全に関する国際協定を結んだことで、メトロポリタン公園から日本にやってきた動物だ。保全への取り組みが評価されたことで、これまで日本にはいなかった動物を日本に連れてくることができた。

よこはま動物園ズーラシアで飼育されているセスジキノボリカンガルーも、「日本でここだけ」の動物である。こちらも、ほかに飼育していたいくつかの施設で継続的な飼育に繋がらなかったなかで唯一、海外の施設とも連携しながら継続的な飼育下繁殖に成功し、個体数を増やしている前向きな例だ。

もうひとつは、後ろ向きな意味である。飼育下繁殖がうまくいかず、あるいはその取り組み自体が行われず、寿命などで個体数が減っていき、結果として、特定の施設にしか残らず、「日本でここだけ」になっている場合である。

たとえば上野動物園で展示されているタテガミオオカミは、過去に複数頭が輸入されたものの繁殖に至らないまま病死などが相次ぎ、現在は高齢の1頭を残すのみとなってしまった。この1頭の命が尽きるとき、日本からタテガミオオカミはいなくなる。

よこはま動物園ズーラシアオセロットも同様である。過去には複数頭が飼育されていたものの現在は高齢の1頭のみとなり、その1頭は腎不全を発症してしまった。そう遠くない将来に、日本でオセロットを見ることはできなくなる(現在、病気治療のため展示をしていないので、実質、日本でオセロットを見ることはもうできない可能性もある。高齢のネコ科動物ということは慢性腎臓病である可能性が高く、そうであれば、進行を遅らせることはできても治すことはできないからだ)。

双方の「日本でここだけ」は、意味合いがまるで異なる。前者の場合は動物園スタッフの努力の成果として誇るべきことであり、来園者としても素直に珍しい動物を楽しむことができる。これは将来的に、「日本でここだけ」から、「近くの動物園でも見られる」に発展していくかもしれない。しかし、後者の場合は、「日本でここだけ」にならなくてすむかもしれなかったものを「日本でここだけ」にしてしまった飼育技術の至らなさの表れ、持続可能性を考慮しない切り花飼育を是としてきた過去のツケがまわってきたものであり、現在のスタッフにしてみれば、努力が及ばなかった悔しさの滲むものである。だから来園者としても、「珍しいんだね」と無邪気に楽しむことは難しい。嫌味にとられてしまいそうな気もするからだ。

「日本でここだけ」と聞くと、つい血湧き肉躍ってしまうけれど、それは、喜んでいいときばかりでもないんだよな、ということを、いつも頭の片隅に置いておかなければいけないな、と思っている。それから、いろいろな動物園、水族館が、前者の意味での「日本にここだけ」を実現できたなら素敵なことだな、と思っている。

直近では、9月13日に、埼玉県こども動物自然公園で、前者の意味での「日本でここだけ」の動物が新しく公開される。見に行かなければならない。