ペンギンの話

ペンギンのことをつらつら書いていきます。

ジャパリパークは動物ファーストの施設ではなかったかもしれないという話。

先日、アプリ・アーケード連携型のゲーム『けものフレンズ3』アプリ版の新ストーリームービーカットが公開された。


けものフレンズ3 新ストーリームービーカット

その映像のなかにひっかかる点があった。それは、私がかねてから抱いている疑念、すなわち、「ジャパリパークはそもそものはじめから“動物ファースト”な施設ではなかったのではないか」という疑念を補強するものであった。よい機会なので、今日はそのことについて書く。

映像のなかでは、作品の舞台となる動物園、ジャパリパークの建設された島が、“観測史上前例のない早さで”形成されたことが明言されている。私はそこにひっかかった。

そんな貴重な島に、動物園なんか作るだろうか、と。

西之島の新島やアイスランドスルツェイ島などのように、島の誕生を人類が観測できる機会は非常に貴重である。新しく誕生した海洋島は、生物がどのようにその島にたどり着き、まったくの荒地からどのように植生が発達し、生態系が築かれていくかを観察し、現在の地球の生態系がどのように形成されたのかを推測するための、このうえない舞台となるからだ。だからたいていの科学者は、その島を手付かずで保全することを要求するし、まともな政府はその要求を飲む。たとえばスルツェイ島は、誕生から2年後の1965年にはアイスランド政府から聖域宣言が出され入島規制がかけられており、現在は世界自然遺産に指定されている。

natgeo.nikkeibp.co.jp

ジャパリパークの建設された島が、観測史上前例のない早さであれほどの規模になったのなら、開発しようという声が保全しようという声に勝ることなど、現代の常識ではありえない。ましてサンドスター(あるいはセルリウム)のような未知の物質さえ認められるのだ。間違いなく特別保護区とされ、研究目的以外の上陸は禁止されたはずだ。誰だって見たいはずだ。ヒトの干渉がないところで、サンドスターが、どのように生態系を構築していくのかということを。ひょっとしたらそれが、世界的な生態系の荒廃や気候変動を緩和するヒントになるかもしれないのだから。それに比べれば、「世界中の動物が見られる動物園」などにたいした価値はない。

しかし、「けものフレンズ」の世界ではそうはならなかった。どういうわけか、世界中の動物を集めた動物園が、そこに建造されてしまうことになった。在来の生態系を潰し、世界中から集めてきた外来種を放つ、正気の沙汰とは思えない選択がなされることとなった。

この島が自然発生したものだとすれば、考えられる理由は、大きく分けて2つある。

ひとつは、生まれたばかりの海洋島のまだ貧弱な生態系などかまっていられないくらい、地球全体の環境が荒廃してしまっていたという可能性である。ノアの箱船の作らなければならないほど、絶望的に生態系が破壊されてしまっていたならば、突如として誕生した、サンドスターによって外界の影響から隔離されているその島に、世界中の生物を集めようとしてもおかしくはない。

しかし、この場合、なぜそこを動物園というレジャー施設として開放することにしたのか、という点に説明がつかない。

世界中の動物をひとつの海洋島(正確には群島)に集めるなどということは、いち私企業や自治体レベルでできることではない。国家レベルでも難しい。そんな大掛かりなプロジェクトは、国連レベルでないと動かせない。となれば、予算も潤沢に拠出されるはずで、レジャー施設としての入園料で維持費を賄うなんてことは不要である。また、そんなことをしなければならないような地球環境に直面していたら、レジャー施設を作ろう、行こう、なんて発想にはならないだろう。緊急避難的な種の保存のためにパークが作られたなら、そこはやはり、一般人の上陸を規制した擬似保護区として運営されたはずだ。100歩譲って、マサイマラなどのように観光客を入れることにしたとしても、観覧車なんか作らないだろう。

だから、この可能性はかなり低いといえる。

となると、残る可能性はひとつである。貴重な島に動物園を作る計画が通ってしまうくらい、その時点での「けものフレンズ」の世界の人間たちは、全世界的に生態系のことがどうでもよかったという可能性だ。

世界中の動物たちを、鯨類にいたるまで全部集めて、ひとところに展示する。それは現代的な動物園以前の、中世の動物コレクションや近世のメナジェリーの発想に近い。娯楽の対象にするにせよ科学的探求の対象にするにせよ、自分たちの知的好奇心の充足のみを目的とした人間本位の施設として、ジャパリパークはスタートしたのかもしれない。そのような計画が通ってしまうほど人類の倫理観が退化していたか、あるいは、そのような計画を止められないほど、世界全体がアナーキーになってしまっていたのかもしれない。それならば、筋は通る。ジャパリパークは、動物ファーストの施設ではなかったのだ。

現代の動物園も、そのルーツは仄暗い。種の保存、環境教育、科学研究といった意義が確立されてきたのはほんとうに最近のことだ。今、世界動物園水族館協会に加盟できているような施設にだって、コンゴの森で暮らしていたところを無理矢理捕まえられてきたニシゴリラがまだ生きている。現代的な動物園の歴史は、ゴリラの寿命よりも浅い、ということだ。ジャパリパークが同じように仄暗い歴史を持っていたとしてもおかしくはない。

ジャパリパークが海洋群島をまるっと敷地にしているという設定を知った当初から、この疑念はずっと脳裏をちらついていた。西之島に限らず小笠原諸島全体の生態系が保全の対象となっているように、海洋島の独特な生態系は極めて貴重なもので、おいそれと壊していいものではないからだ。今回の映像の情報によって、この疑念はより強化されることになってしまった(ひょっとしたらはじめからそういう設定が明かされていたのかもしれないけれど、私は知らなかった)。登場した金髪少女の発した「ノアの箱船」は、皮肉のように響かないこともない。

もちろん、この結論は、私自身受け入れ難いものでもある。だって、ミライやカコが、好き好んでそんなところに就職するとは思えないから。この結論を受け入れることは、彼女たちの人間性を一部否定することになってしまう。

けれど、ほかの可能性は、いまのところ思いつかないのだ。

さっき、「この島が自然発生したものだとすれば」と書いたけれど、この仮定をなくしてみることはできる。

島で発生するセルリウムやサンドスターは、これまでの作品での描写から、ヒトの思いを反映することがわかっている。というか、純粋な自然物と捉えるには、あまりにヒトに干渉しすぎている。エマージングウイルスが続々出てくるのは人類の活動に対する地球の自浄作用だみたいなオカルトじみた話を聞くことがあるけれど、地球に意思があるとして、ヒトや現代の生態系だけを特別視する理由はない。生物が隕石に吹き飛ばされるのも、核に吹き飛ばされるのも地球にとっては同じこと。ああ、またたくさん生物が死んでいったなぁ、次はどんなやつが出てくるかなぁ、と思うくらいだろう。人類に滅ぼされる生物はかわいそうで、シアノバクテリアに滅ぼされた嫌気性生物はかわいそうではなかったなんてことがあるだろうか。サンドスターほどにヒトを特別視する存在は、宇宙広しといえどもヒト自身以外にはいない。とすれば、セルリウムやサンドスターそれ自体が、人工物である可能性はある。ならば、それを吹き出す島全体がまるっと人工物と考えることもできだろう。「観測史上前例のない早さ」という言葉には、「実は自然物じゃない」という含みがあるのでは、とも思える。

そうだとしても、「そんなもん作って海洋生態系に影響はないのかよ?」というツッコミはあるだろうけれど、自然発生した海洋島を動物園にしてしまうよりは、いくぶん通りやすいのではないか、とは思う。

ただ、ジャパリーパークが人工島であることが知れ渡っているなら、わざわざ「自然発生したことにはなってるけどね」のような含みを持つ発言はそもそも出てこないと思われる。逆に世間には自然発生したと思われているなら、「貴重な島を開発するのか」と結局バッシングを受けることになるはずだ。島の成り立ちについての発言が、人工島であることと整合しない。ただ海洋島に作られたんだよという情報だけならば人工島の可能性もありえたと思うのだけれど、今回の映像によって、その可能性も潰えてしまっているのである。

だから結局のところ、冒頭の疑念に帰着せざるをえない。

ジャパリパークはもともとそれほどクリーンではない成り立ちで、今回新登場した人物はそれを敵視する環境テロリストみたいな立場なのかもしれない。私はそんなふうに思ってしまっている。

できればほかの可能性が、作中で明らかになればいいのだけれど。

かばんとキュルルとサンドスター

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6月24日まで池袋パルコで開催されている「けものフレンズ」のコンセプトデザイン展「けものフレンズわーるど」に行ってきました。作中では推測するしかなかった設定を確かめることができたり、制作過程の一端を知ることができたりととても充実した時間を過ごすことができました。

今日は、「けものフレンズわーるど」で知った設定なども踏まえて、あらためて「けものフレンズプロジェクト」について考えてみたことを書きたいと思います。「けものフレンズわーるど」でのみ明かされている情報についても触れますので、まだ行ってないよ、という方はご注意ください。

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ペンギン思い出話

私がペンギンを好きになったのは、小学生の頃である。きっかけは、日本のペンギン研究の第一人者であった青柳昌宏先生の本『ペンギンたちの不思議な生活』(講談社)を読んだこと。講談社ブルーバックスという堅めのレーベルから出版され、学術的な正確さが追求されながら、一方で青柳先生流のユーモアにも溢れたその本を読んで、私は海を飛ぶ不思議な鳥たちに魅せられることになった。

この本で印象的だったのは、解説のための図版とは別に、アクセントとしてとても可愛らしいアデリーペンギンのイラストが多用されていたことだ。ほんものよりもやや頭身が高めですらりとしたイラストだったのだけれど、そのデフォルメ具合や豊かな表情、しぐさがとても魅力的だったのだ。とくに「恍惚のディスプレイ」をしているイラストで、アデリーの顎の付け根の、羽毛の色が黒から白へ切り替わるラインがハートマーク型にディフォルメされているのが(もともとハートマークに近いのだが)素敵で、お気に入りだった。

イラストがツボにはまった私は、その後、ひたすら、そのイラストのコピーに明け暮れるようになった。休み時間に自由帳に描くのみならず授業中にもノートの片隅に描きまくり、身の回りのあらゆる紙がペンギンまみれになった。当時の自分の感覚としては、ほぼ完コピできたと自負していた。

あるとき、教室の机でそのペンギンの絵を描いていた私に、隣の席のクラスメートが「何を描いているの?」と声をかけてきた。星のカービィ四コマ漫画を描いて友人に見せるなど、人に自分の絵を見せることに物怖じしないタイプの子どもではあったのだが、そのときは妙に気恥ずかしくて、おずおずとノートを差し出したことを覚えている。動物とはいえ、描いているのが「求愛」だったからかもしれない。思春期に足を踏み入れる頃だったからね。わりと仲が良く、休み時間に一緒に過ごすことも多かった相手だけに、変に思われないか、と思ったような気がする。ペンギンのことを知らなければ、わかるわけもないのであるが。

はたして、私の絵を見たクラスメートは、感心したような顔をして、「あ、かわいい」と言った。その言葉を聞いて、私はほっとした。それに、ペンギンの絵を人に見せるのははじめてだったから、その「かわいい」は、とても心に響いた。借り物の絵とはいえ、カービィみたいなキャラクターに頼らない絵が褒められて、なんだか自分が認められたような気がしたのだ。だから、そのクラスメートが、「私にも描いてよ」と言ってきたとき、私は一も二もなく頷いた。

人に見せるのではなく、はじめて人に贈る絵だ。お父さんやお母さんに贈りなさいと、先生に描かされる絵とは違う。本人から描いて欲しいと頼まれて、描いてあげたいと思って描く絵だ。気合いを入れて、私は彼女のノートにペンギンの絵を描いた。いつもの倍は、時間をかけたような気がする。細かいところまでこだわった。そして、ノートをクラスメートに返した。描き上がった絵を見て、クラスメートは、「やっぱりかわいい。ありがとう」と笑った。とても素敵な笑顔だった。ほかのクラスメートからその絵について尋ねられた彼女が、「あ、これ◯◯ちゃん(私の本名)が描いてくれたんだよ。いいでしょ?」と自慢してくれたことは、とても誇らしかった(残念ながら、顧客は増えなかったけど)。

小学校卒業を待たずして転校していったそのクラスメートと再会、というか再び「つながった」のは、社会人になってすぐのことである。フェイスブックに、彼女から友達申請が届いたのだ。

でも、はじめてそれを通知欄で確認したとき、私は、その相手が彼女であるとすぐには認識できなかった。なんか、知らない人から申請が来てるな、と思い、たぶん1ヶ月くらい、そのまま放置してしまっていた。申請と一緒に届いていた「名前を見つけて懐かしくなったから」と記されたメッセージを読んではじめて、知り合いかもしれないと思い至り、ようやく、彼女であることに気がついた。気づくのが遅れたのは、私が知っているのとは異なる名前が表示されていたからだ。彼女は結婚して、苗字が変わっていたのだ。

ああ、なるほど、とそのとき私は思った。1浪して入った6年制大学を卒業した年齢だ。そりゃクラスメートが結婚もするだろう。同じように懐かしさは感じたけれど、心に波風が立つことはなかった。子どもの頃の話だ。感情を乱すにはもう時間が経ちすぎていたし、よくも悪くも私も大人になっていた。ただ、やっぱり違う世界に住んでいる人だったのだな、とだけ思った。

あの頃から、ペンギンの趣味もずいぶん変わった。当時は青柳先生最推しのアデリーペンギンがそのまま推しペンギンだったけれど、今はジェンツーペンギンだし、ペンギンよりもペンギンのフレンズばかり描くことになろうとは思いもしなかった。私のなかのペンギンブーム自体、間欠的なものでもある。時は流れ、世界は変わる。ただ、今でもペンギンを見るときに、頭の片隅に当時のことがうっすら浮かぶことがある。

とりあえず、フェイスブックでそのクラスメートが抱いている子どもが、ペンギン好きに育ってくれたら私は嬉しい。

「ペンギントークwithちく☆たむ」について思うこと。

東武動物公園では現在、「けものフレンズ」とのコラボレーションイベント「東武ジャパリパークへシュッパツシンコウ」が開催されています。その一環として今日(4月20日土曜日)に、「やまだおにいさん、さくらいおねえさんのペンギントークwithちく☆たむ」が実施されました。ペンギンたちへの給餌の時間を利用して行われるキーパーズトークに、「けものフレンズ」でジェンツーペンギンを演じる田村響華さんと、フンボルトペンギンを演じる築田行子さんがゲストで参加するイベントです。

www.tobuzoo.com

ちく☆たむのお二人のことは好きなので、あにてれテレビ東京が運営するアニメ配信サイト)で放送されたライブ配信をちらっと覗いたのですが、そのとき、なんだかもやもやしたものを感じてしまったので、メモとして記しておきたいと思います。

配信を覗いてみてまず目についたのは、画面に映る観客の後頭部が、成人男性のもの(ハイティーンの方もいたかもしれないですが)ばかりだったことです。動物園を訪れる人の多くは家族づれあるいはカップルで、そのためキーパーズトークに集まる人の男女比も、私が見る範囲ではほぼ半々になっていることが多いですから、男性に偏っているのは十中八九、「けものフレンズ」コラボの、そしてちく☆たむの影響だと思いました。若い女性声優であるちく☆たむのファンが、ちく☆たむを見たくて前列に陣取っているのだろうと。

はじめはそれをたいしたことだとは考えませんでした。「けものフレンズ」のコラボイベントなんだし、ファンが集まるのは当然で、やっぱりな、という感じです。ちく☆たむのファンはだいたいペンギンが好きですから、まあ楽しそうなこと、と思っていました。

けれど、よくよく考えてみて、ひょっとしてこれは、まずいことなんじゃないかという思いが湧いてきました。正確にいえば、まずいことが起きるリスクを孕んだ現象なのではないか、と思うようになりました。なぜなら、「ペンギントーク」それ自体は、コラボとは関係なく、毎日同じスケジュールで開催されている東武動物公園の「常設展示」だったからです。コラボのために用意されたものではなく、もともと来園者すべてに向けて行われているイベントを組み込んだもの。それを、コラボ期間中とはいえ、「けものフレンズ」ファン、ちく☆たむファンがジャックするような形になってしまうと、博物館に準ずる施設とされ、存在意義のひとつに環境教育を掲げる動物園の理念に反することが起こりうるのではないか、と思ったのです。

www.tobuzoo.com

たとえば、「ちく☆たむを見たい人たち」があまりにたくさん集まって、最前列のみならず観覧スペースのほとんどを埋めてしまったら、その分、「純粋にペンギンを見たい人たち」(ペンギントークの本来のターゲット)が展示から遠ざけられてしまうかもしれません。「ペンギンが特別に好きというわけではないけれど、通りかかったらたまたま飼育員さんがなにか喋っているから聞いていこうか」と思ってくれたかもしれない人(ペンギントーク潜在的なターゲット)が、「なんか知らない人のイベントをやってるし、混んでるからパス」してしまうかもしれません。観覧スペースがちく☆たむファンによって占拠されていなかったとしても、あるいはちく☆たむが出演すること自体が、「ちく☆たむって誰?」という人にとってはノイズになってしまうかもしれません。もしそうなってしまったら、動物園としては間違いなく失点です。楽しみ方は人それぞれとはいえ、動物園はなによりもまず、「動物それ自体を楽しむ人のための場所」であるはずだからです。今回のイベントが実際にどうであったかは画面越しにしか見ていない私にはわかりませんが、同様のイベントを開催した場合に、そういうふうになってしまうリスクはあるのではないかと私は考えています。

もちろん、今回のイベントでも、ちく☆たむのファンの人たちは、「ペンギンに興味もないのに前列に陣取っていた」わけではないはずです。前述のとおり、ちく☆たむのファンの人はだいたい動物が好きで、もしちく☆たむが参加していなかったとしてもペンギントークを楽しめる人たちであることを私は知っています。ただ、ちく☆たむがいなくても動物園に行く人たちが、ちく☆たむの出るイベントにわざわざ集まるということは、少なくともそこにおいては、軸足が「ペンギン」ではなく「ちく☆たむ」に置かれているのは確かでしょう。私自身も含めて、そういう立場の人が大勢集まることによって、「ちく☆たむなんて知らんけどペンギンを見たかった人たち」が遠ざけられてしまうとしたら、集まっているのが全員動物好きであったとしても、やっぱりあまりいいことではないかもしれないと思うのです。

なお、自己弁護になってしまうかもしれませんが、これはどちらかといえば、ファンというよりは動物園側の姿勢の話ということになるのだと思います。公共的な施設であるという前提のうえで、それでもやむなしとするのかどうか。餌代は間違いなく稼げるでしょうから。

個人的には、このようなコラボイベントは、一般の来園者の体験を妨げるリスクを最低限にした形で開催されるべきだろうと思います。どうしてもキーパーズトークにタレントを呼ぶならば通常回とは別に1回増やすかですが、それでも観覧スペースを一時的に占拠するのは同じですし、動物の負担も増えてしまいますから、やはり展示の中ではなくイベントステージなどで別個にイベントを行うのがよいのではないでしょうか(「けものフレンズ」コラボではたいていはそのような形でトークショーなどのイベントが行われていますね)。一時的なものだからいいじゃん、という考えもあるかもしれませんが、その動物園にもう二度と来ない人、なかなかこれない人だっているかもしれないわけで、そういう人に対して何かが伝えられたかもしれない機会を失うリスクは少ないほうがいいはずです。

私はちく☆たむのことが好きで、その活動を応援しています。だからこそ、うまく使ってあげてほしいなあ、と思うのです。

『けものフレンズ2』は『けものフレンズ』を否定しているのか。

けものフレンズ2』(以下、「2」と表記します)の物語の特徴として、フレンズのつく嘘やフレンズ同士の対立など、「フレンズそのものの振る舞い」がキュルルの旅を妨げる障壁となって現れる点が挙げられます。毎回キュルルたちがフレンズたちの振る舞いによって「迷惑」を被る形で、物語は進んでいきました。大きな川や迷路といった外部の障壁にフレンズたちが協力して対処したり、フレンズの「困っていること」を解決したりして物語が進行していた『けものフレンズ』(以下無印と表記します)とは、この点が大きく違っています。

対立しあうフレンズたちと協力しあうフレンズたち。ストーリーから受ける印象は真逆のものでした。そのことが、「2」は無印の世界観を否定するために作られたのだ、という感想をもたらす大きな要因になっているのだと思われます。

しかし、場外乱闘の件を括弧に入れて物語そのものだけを見るならば、「2」は無印の世界観を「補完」するものではあっても、否定するものにはなっていないのではないか、と私は思います。

以下にその理由を記します。

第一に、「2」のなかに現れていた「ギスギス」の多くには、理由があったのだと私は考えています。

木村隆一監督や脚本のますもとたくやさんがインタビューではっきり答えているように、「2」のサブテーマは「人間と動物の関係」であり、登場するフレンズは、「人間の影響を色濃く受けたもの」が中心に選ばれていました。

人間と動物の関係は、作中でも明示されていたように決して優しいものばかりではありません。絶滅させたり、不適切な飼育環境で虐待に等しい仕打ちをしたりと、人間はひどいことばかりしている。逆に、野生動物に作物を荒らされたり、網にかかった魚を奪われたりして、困っている人たちもいます。むしろ緊張関係にあるほうが一般的だといえます。

村上春樹さんのデビュー作、『風の歌を聴け』で、「動物が好きだ」という女性と主人公とのこんなやりとりがでてきます。

「ねえ、インドのバガルプールに居た有名な豹は3年間に350人ものインド人を食い殺した」

「そう?」

「そして豹退治に呼ばれたイギリス人のジム・コルヴェット大佐はその豹も含めて8年間に125匹の豹と虎を撃ち殺した。それでも動物が好き?」

かなり単純化された図式ではありますが、動物が好きという人に突きつけられる問いはいつでもそれだ、というのは間違いありません。そして、動物園はその緊張関係が如実に現れる結節点のひとつでもあります。「けものフレンズ」が動物園を舞台にしたプロジェクトである以上、そこに目をつむったままでいることはできない、と私は考えます。ですから、「2」がサブテーマに「人間と動物の関係」を選んだのも、その負の側面を表現しようとしたのも妥当な選択であると思っています。

そして、それを取り上げるのであれば、「人間の影響で変容させられた動物」が物語上の障壁になるのも、自然な展開であろうと思います。

実際、『けものフレンズ2』において「障壁」として現れるフレンズたちの振る舞いには、人間の振る舞いや、動物への眼差しの影響が見て取れます。フレンズたちは意味もなく「ギスギス」しているのではなく、人間が動物に与えた影響によって、「そうさせられている」のです。キュルルは、その「何か」に巻き込まれることによって、いわば「人間の業」の代償を払う形になっています。

わかりやすいところを、順番に見ていきましょう。

第2話のレッサーパンダが自己肯定感を持てず、誰かの役に立って認められたいという思いを持て余してしまっていたのは、もともとパンダとはレッサーパンダを指す言葉だったのに、ジャイアントパンダの発見以降、「パンダといえばジャイアントパンダ」になってしまった歴史を反映したものでしょう。レッサーパンダは不人気動物ではないですけれど、その子どもをせいぜい1分ほど見るためだけに動物園に2時間待ちの行列ができたことは未だかつてありません。レッサーパンダジャイアントパンダに対抗するためには、千葉市動物公園風太くんのような、ちょっと歪んだ取り上げられ方にならざるを得なかった。「人間の感情でマイナな位置に押し込まれてしまった悲哀」を物語に組み込むならば、あの展開もむべなるかな、と思います。彼女のこじらせは人間のせいというわけ。

第3話のバンドウイルカとカリフォルニアアシカは、もっと直接的です。彼女たちがご褒美なしでは陸に帰せないとキュルルを突っぱねたのは、人間に教え込まれた、オペラント条件づけに基づくショーのルールに縛られていたからです。人間にそう教えられたからそうしている。動物のトレーニング法に明るくない一般視聴者にはそんなのわかんねぇよ、というのはそうなのですが、結局は人間の振る舞いが障害物として人間に跳ね返ってきているのです。

第5話では、動物を従える「ひとのちから」を(ヒョウやワニたちからは直接的に、ゴリラからはやんわりと)利用させてくれと無茶な要求をされてしまいますが、それはさまざまな野生動物を、ときに絶滅させるほどに利用・排除してきた歴史を反映したものでしょう。その前提となったヒョウとワニの対立も、種が異なりニッチ(生態学的地位)も異なる、(まれに捕食することがあるけれど)接点のない種族同士の縄張り争いの「不自然さ」を、人間活動による生息地の縮小・分断に起因する過密化がもたらす個体間の過干渉のメタファーと捉えることもできます。

第7話ではチーターとプロングホーンのスピード対決に巻き込まれてしまいますけれど、「どっちが速いか決着つけよう」というのはそれこそ人間の視点ですよね。チーターの足が速いのは別にいちばんになりたかったからとかではなくて、ただただ獲物を捕まえやすくするための適応です。プロングホーンも同様に、ただただ捕食者を振り切るために走っているだけです。インパラもニホンジカオセロットアカカンガルーもモウコノウマもウンピョウもホッキョクウサギも。動物は順位なんて気にしていない。それらに対して、「どっちが速いんだろう?」「いちばんはどれだろう?」と順位を決めたがるのはあくまで人間で、作中でプロングホーン自身が言っているように「いちばん」の基準自体があってないようなものであるところで、順位を決めたがるという一方的な視点の跳ね返りを受けた形なのだと思います。

第9話については言うまでもないかもしれません。仲間の犬よりも飼い主のために命を張るほど、人間に対して深い精神的な結びつきを持つようになった最古の家畜をひとりぼっちで残したら、それは分離不安症から異常行動を起こしても当然、といえます。

第10話から最終話では、キュルルの描いたフレンズの集合絵から大量のフレンズ型セルリアンが生まれ危機に陥りますが、これはもともと数千万単位の群れで生活していたものの人間の手によって絶滅させられてしまったリョコウバトが、寂しさを紛らわせるためにキュルルに自分の絵を頼んだことがきっかけになっています。リョコウバトが今でもアメリカ大陸の空を覆い尽くす存在だったら、発生しえなかったイベントですね。

このように、「2」は、人間の影響によって変容させられた動物の、その「変容した部分」が物語上の障壁となる、という形で構造化されており、やみくもにギスギスさせているわけではないのです。

第二に、その「ギスギス」は、「乗り越えられるべきもの」として描かれていたと私は捉えています。

作中でキュルルは、人間の影響を受けた動物の、その「影響を受けた部分」に対応した「遊び」を提案することで、フレンズたちの抱える問題を解消しようとしていました。

第2話では遊具を作る過程でレッサーパンダの能力を褒めることで「承認」を与え、第3話ではイルカやアシカの能力をより引き出せるような遊具と遊び方を提示して自発的なパフォーマンスを引き出し、それを賞賛してみせることで「以前のルール」から彼女たちを解放しています。第5話では「ひとのちから」を相対化してみせると同時に、(カタルーニャ・ナショナリズムに対するリーガ・エスパニョーラクラシコみたいな)代理戦争を提案することで縄張り争いの緊張を緩和しようとし、第7話ではリレーを通じて「勝ち負けの基準」を示すことで彼女たちの気持ちをすっきりさせようとしています。第9話では、「遊んであげる」こと自体でイエイヌの寂しさを癒そうとしたのでしょう。キュルル自身が未熟なので、前提の誤りや不発と感じられることもありますが、本人の主観的には、フレンズたちの問題に対応した「遊び」を提案しようとした、ということだったのだと思います。

なお、フレンズ自体が障壁となっていなくても、人間が動物に、正確には飼育下の動物に強いている問題が提起されて、キュルルがそれに回答を出す、という場面も出てきます。第4話では、洞窟で雨宿りを余儀なくされ、サーバルたちが退屈してしまいますが、狭い洞窟では狩りごっこのような「自由に動けるときの遊び」ができないことが示され、代わりにキュルルがパズルを作ります。これは、飼育下で行動が制限された動物の退屈に対する遊びによるエンリッチメントのメタファーでしょう(キュルルの「遊び」がエンリッチメントの意味合いを持つのは、ピンポイントで「ここ」だと考えています)。

もちろん、これらのキュルルの行為は、直接的には、「キュルル自身が先に進むため」のものであったのだとは思います。けれども、これらの行為の積み重ねから、ビーストに対して「わからないとしても、わかろうとしたっていいでしょ」と発言するようになり、最終話で「みんなのために何ができるか考えたい」という結論に至ったキュルルの目に、フレンズたちの「ギスギス」が解消されるべきもの、乗り越えられるべきものとして映っていることは想像に難くありません。

最終話においてキュルルは、自業自得で招いてしまったトラブルのために場合によってはお互いの対立も越えて身体を張ってくれたフレンズたちを見て、「優しくてあたたかい場所はここにあった、僕のうちはここでいい」と結論づけます。ここでの「優しさ」や「あたたかさ」は無印においてかばんちゃんのために結集したフレンズたちのそれと同質のものといえるでしょう。そして、「そんなみんなのために自分になにができるか考えたい」というわけですから、その目指す先は、たつき監督の描いた「優しい世界」とそう異なるものではないはずです。作中でそのまま描かれたわけではなくても、その先にある理想形として「肯定」されていることは間違いないのではないでしょうか。

以上のことから、私は「2」を、「無印の世界観を肯定しつつ、プロジェクトとして避けては通れない部分を補完しようとした作品」であるのだと捉えています。そもそも、無印で描かれていた世界観も、たつき監督の完全オリジナルというよりは、もともと「けものフレンズ」の世界に内在するものだったからこそ(少なくとも合致するものだったからこそ)、「けものフレンズプロジェクト」として世に出ることになったものであるはずですから、それを否定するというのは(クリエイティブの側面からは)考えにくいのではないでしょうか。「2」は、無印で描かれた世界とは異なる視点から人間と動物の現実を描いたというよりは、無印で描かれた「理想」に近づくために解決しなければいけない問題にアンダーラインを引くために「現実」を描いたのだと私は思います。結局のところ、言いたいことはどちらも同じ、だと思うのです。

無印のあとの時代という設定を採用しながら、ストーリーラインに引きずられてなのか、無印において「優しい世界」を体現しているキャラクター(PPP、かばんなど)を「ギスギス」の側へ引き戻してしまった印象があることや「ギスギス」にいたるフレンズたちの事情を読み取りにくいことなどは失点だと思いますし(漫画版ではわかりやすくなっているし言葉遣いもトゲ抜きがされているようなので、アニメの表現も故意ではなく過失なのだと思います)、やっぱり説明不足の感は否めないのですが、まっこう否定するために作られた、というのは無理があるように感じています。

そう思って、素直に楽しめる状況になってほしいと思います。

キュルルの叫び、“大好き”の力

前回の記事で『けものフレンズ2』について比較的否定的なことばかり書いたような気がするので、「よいところ」についても触れておきたいと思います。

けものフレンズ2』の最終話では、とても印象的なシーンがありました。

自分の描いた絵によってパークに危機的な状況をもたらしてしまったこと、ヒトと動物のあいだに軋轢や不協和が存在することをフウチョウたちに突きつけられたキュルルが、迷いを吹き飛ばすように(動物たちが)「大好きなんだ!」と叫ぶところです。

言葉はあまりにも単純で、作中で暗示されてきたヒトと動物をめぐる複雑な問題に対する回答として、一見、安直すぎるような回答にも思えます。子どもっぽい(子どもなんだからしかたないですが)、中身がないと嘲笑する向きもあるかもしれません。けれど、キュルルが最後にたどり着いた言葉がそれであったことを、私は素敵だなと思いました。

正解ど真ん中だったから。

動物園や水族館では、これまで、存在意義のひとつとして「環境教育」が行われてきました。来園者に動物や自然についての「知識」を伝えることで、自然環境への関心が高まり、環境保全のための行動につながっていくはずだと考えられてきたからです。

しかし、NSF(米国科学財団)の助成のもとAZA(アメリカ動物園水族館協会)が行った文献調査によって、知識を与えるだけでは行動は変えられないことを示唆する知見が多く認められ、「環境教育」には限界があることが知られるようになりました。自然に関する知識だけを伝えても、自然を守るための行動には必ずしも繋がらないことがわかったのです。

代わりに浮上してきたのが、「共感(Empathy)」というキーワードでした。近年の研究で、動物に対する共感が、保全のための行動を促すのに重要であることが示唆されるようになってきたのです。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/cura.12257

現在、とくに北米の動物園は、「来園者の動物への共感を育むための取り組み」を積極的に検討するようになっています。AZAなどが音頭をとってプロジェクトを進めていますし、施設ごとに独自に進められている計画もあります。本物の野生動物がいて、その愛らしさも迫力も間近で見せることができるという強みを活かし、来園者の「感情」を動かし共感を育む。それが単純な「環境教育」に代わる新しい動物園の役割として認識されはじめているのです。

www.aza.org

youtu.be

パークの各地を巡りさまざまなフレンズと出会い、描いた絵がセルリアン化するまでに「思い」を強めたキュルルが、「大好きだから」という理由でフレンズたちのために何ができるかを考え、行動をはじめる。『けものフレンズ2』の軸となるこの展開は、「動物園が提供できる体験」の理想形なのだと私は思いました。だからよい印象を持ったのです。

ニューヨークのブロンクス動物園などを運営する野生生物保全協会で展示グラフィックアーツ部門スタジオマネージャーを務める本田公夫さんは、川端裕人さんとの著書『動物園から未来を変える ニューヨーク・ブロンクス動物園の展示デザイン』(亜紀書房)という本のなかでこう述べています。

動物園ができる一番、強力無比なことは、動物を好きにさせる、動物をすごいと思わせる、そういうことではないでしょうか。

 シンプルですけれど、結局のところ、動物園の存在意義とはそこに尽きるということなのでしょう。ならば、動物園を応援する意図を含んだ「けものフレンズプロジェクト」の方向性も突き詰めればそこに向かうはず。「共感」を演出するには世界観の作り込みが甘かったのではないか、といった点に議論の余地があるにせよ、「2」も大筋としては、目指す場所を違えていなかったのだと思います。『けものフレンズ2』を「それでも好きだよ」と私が言えるのは、この要素があるからかもしれません。

今後も、「けものフレンズプロジェクト」には、「大好き」を積み増していくような展開をしていただければ、ファンとしてはありがたい限りです。

動物園から未来を変える―ニューヨーク・ブロンクス動物園の展示デザイン

動物園から未来を変える―ニューヨーク・ブロンクス動物園の展示デザイン

 

 

けものフレンズ2の感想

アニメ『けものフレンズ2』が最終話を迎えました。ひと段落ついたところで、私の感想を書き留めておきたいと思います。

放送期間中、私は最新話の放送を楽しみにしていましたし、作品のなかからいろいろないいところを見つけることができました。「人と動物の関係」をサブテーマにしたのは目の付けどころがよかったと思いますし、キャラクターの造形もかわいかったですね。アイキャッチの動物解説は、情報の充実度という点ではあのやり方が正解だろうと思います。PPPのライブシーンは圧巻でしたね。何度も見てます。

けれど最終的に、私のなかで『けものフレンズ2』は、(前作のように)手放しで称賛できる作品にはなりませんでした。どうしても気になってしまう点があったからです。

それらは、大きく3つのカテゴリーに分けられます。第8話のなかに、それぞれがよく表れているように思うので、これを例にとって説明します。

第8話は、PPPとマーゲイの登場する回です。PPPのステージに新しい要素を取り入れて広がりを持たせようと考えたマーゲイが、PPPを主役とした演劇の開催を計画するも、演劇という概念自体がフレンズに共有されていないこと、PPP自身も演劇の経験がなく不安感が強かったことから、計画は頓挫。しかし、ステージ本番でのトラブルを打開するためにキュルルたちの協力によりその演劇を行ったところ、結果的にステージは大成功し、マーゲイはPPPからその功績を認められ、信頼を勝ち取る、というあらすじです。

この回のなかでまず私が違和感を覚えたのは、マーゲイに対するPPPたちの反応でした。お互いの関係性を考慮すると、ちょっと素っ気ない、というよりは冷たくないか、と感じられてしまったのです。

演劇の実施に関してPPPがマーゲイにNOを突きつける場面は、作中で2回出てきます。1回目は、ほかの演者のオーディションの審査員から降りるとき。このときはプリンセスが、新曲の練習に集中したいことをマーゲイに伝えます。マーゲイはメンバーに気を使い、オーディションを1人で引き受けると伝えますが、それに対する謝罪や感謝の言葉はありませんでした。そばにいたコウテイもとくにフォローするでもなく、まるでマーゲイが自ら進んで「任せてください」と言ったかのように「そうか、じゃあ、任せた」と返します。2回目は、アクションシーンのある劇で怪我をしたら肝心のステージに差し支えるからと、演劇自体の中止を提案するとき。ここではプリンセスは、「マーゲイがいろいろ考えてくれているのはわかる」と理解を示しつつも、やはり謝罪などはなく、「今回は必要ないかなって」といささか強めの言葉を使っています。コウテイからもやはりフォローはなく、マーゲイが引き下がると、むしろ厄介ごとが片付いたというような口調で、「よし、じゃあ歌の練習を再開だ」とその場を後にします。残りのメンバーからもマーゲイを気遣うような発言はとくにありません。

これらのシーンを見て、PPPとマーゲイはこんなにすれ違っちゃってるのか、と私はおののきました。とくに、アニメ無印では飛び出していったプリンセスをまっさきに追いかけようと言うなど仲間思いな面があると感じていたコウテイがなんのフォローもしない、むしろ追い討ちをかけるようなことを言うというのはくっきりショックでした。

PPPは世代によってメンバーの人数が変動します。フライ先生の漫画版では正確な人数は出てきませんが、ネクソンアプリ版では4人で、ロイヤルペンギンはいませんでした。その前提で、アニメ1期と同じ5人、さらに漫画版やアプリ版ではPPPとからみのなかったマーゲイが無印と同じくマネージャーについているのですから、「2」の個体は無印と同一個体である可能性が高いと思われます。だとすれば、そもそも無印でのPPPの危機を救った功績が認められてマネージャーに任命されたマーゲイとPPPとの間には、はじめから信頼関係が成り立っていたはずです。それがどうして、コウテイにすら、社交辞令であっても「ありがとう」や「ごめんなさい」を言ってもらえないまでに冷え込んでしまったのか。もっとはじめから信頼関係を感じられるように描いてくれてもよかったのではないか、と感じました。

けものフレンズ2』では、このように胸をざらつかせる描写がいささか多かったように思います。それが、気がかりの1つめです。

第8話については、あるいは、同じ構成であっても「2」のPPPとマーゲイは無印とは別個体なのかもしれません。マーゲイの回想シーンやPPPのサーバルに対する反応(というか無反応)など、そう思わせるような要素はあります。「2」のマーゲイはまた新たにPPPと信頼関係を築いている途中である、と考えれば、納得はできます。ただ、その場合は別の疑問を抱かざるを得ません。それは、このPPPはなんでアイドルをしているんだろう、という疑問です。過去作品では理由付けは容易でした。漫画版やネクソン版は「ヒトがいた頃のジャパリパーク」が舞台なので、イルカショーをやるような感覚でフレンズのアイドルグループを作ろうとヒトが画策したのだろうと自然に考えられます。アニメ無印では、過去にパークにアイドルというものが存在したことを知ったプリンセスが、自分もやってみたいと過去のPPPメンバーを調べ、該当するフレンズをリクルートしてPPPを結成しました。舞台版はアニメ無印のパラレルワールド。じゃあ、今回は? 無印では、プリンセスに声をかけられるまで、ほかのメンバーはアイドルになろうだなんて露ほども考えていませんでした。ペンギンが自然にアイドルになるのではないならなんらかのきっかけが必要だったはずですが、それがなんだったかは、「2」のなかでは語られることがありません。「2」の第8話はあくまでマーゲイが主役だったので設定はあっても省いたのかもしれませんが、別個体であるならば、軽くでも、理由の提示があればよかったのにな、と思ってしまいます。そもそもそのあたりがあやふやなせいで、このPPPとマーゲイが無印と同一個体なのか別個体なのか、いまいち判断がつかなくなっているようにも思うからです。マーゲイが登場時にサーバルに反応していたので(ピンポイントでサーバルに反応していた描写ではなかったですが、流れを踏まえるとサーバルに反応していたように考えられる)、これは同一個体かな、と思ったものの、その後PPPは無反応。マーゲイから説明があったとしても何かしらの反応はあると思うので、あの無反応っぷりはサーバルを知らない別個体であることの表れのように感じられます。マーゲイだけが同一個体でPPPが代変わりしたのだとしたら、マーゲイの回想シーンと矛盾するように思われます。と、結局なんやねん、と混乱してしまうのです。

けものフレンズ2』では、このような不明瞭な設定も多かったように思います。ほかにたとえば、第10話のアライさんのセリフは無印と同一個体であることを思わせるものでしたが、もしアラフェネが同一個体なのだとすれば、無印のあと自然に世代交代するほどの時間は経っていないと考えられます。しかしそれでは、かばんと一緒に研究している博士と助手は同一個体なのか別個体なのか。同一個体なのであれば島の長の立ち場を捨ててかばんのもとへやってきた理由はなにか、別個体ならばキョウシュウの博士助手はどうなったのか。パークではそんなにたくさん双子が生まれるのか。疑問符がたくさん湧いてきます。そもそもキュルルの正体はなんだったのか。それが、気がかりの2つめです。「けものフレンズプロジェクト」自体が、いろんな設定を曖昧なままにしておくことで作品展開の自由度を担保する戦略をとっているようにも思えますが、キュルルが何者で、どういう経緯でコールドスリープしていたのかがわからないまま、というのはさすがに乱暴なのでは、と思わなくもありません。

3つめの気がかりは、振る舞いが無印の印象とちょっと合わないなぁ、と感じるフレンズが少なからずいたこと。前述したコウテイの振る舞いなどがそうですね。ほかにはかばんにポカがちょっと多いのでは、というあたりも含まれます。ただ、コウテイについていえば別個体であるとはっきりしていればこの子はそういう子なんだな、と捉えることもできますし(アプリ以前のコウテイに白目属性はたぶんなかった。滑り属性ももちろんなかった)、かばんの振る舞いについてはどうしてそうなったのか(海底火山に気づかなかったのは、黒セルリアンに食べられた経験が強烈すぎて「セルリアンは山からくる」というバイアスに縛られていたからではと勝手に想像していますけれど、そういうこと)が仄めかされでもしていれば印象は違ったかもしれませんから、これらは1つめや2つめに還元されるようにも思います。

以上が、私が『けものフレンズ2』に感じている3つの気がかりです。

SNS上では同じような理由のために「けものフレンズ」から離れたらしい人も見かけました。そのことも含めて、これらのことが、『けものフレンズ2』を賞賛できない理由になっているのです。

あるいはこれらの気がかりは、ひとつひとつのエピソードにもう少し時間をかけて、ゆっくり話を進めるようにすれば解消されたのかもしれません。クッションとなるような間や言葉を少し足せば「ギスギス感」はいくぶん和らいだと思いますし、キャラクターの背景をより詳しく描写することもできたように思います。とすればこれらは結局のところ、「尺が足りてない」ということに集約されるのかもしれません。そうであれば、現在連載中の漫画版や、設定・伏線については今後の新作品などでの補足、埋め合わせは可能でしょうから、期待したいところです。

というわけで、敢えて星をつけるとすれば、『けものフレンズ2』は私のなかでは今のところ星3つというあたりです。私にとって楽しめる要素はあるけれど、人に薦めたりはしないだろうな、と感じています(PPPのライブシーンはすごいから見て!と言いますけど。あとロバかわいい)。失敗作という評価に対しても、否定しうるだけの手札を見つけられてはいません。無人島に1本だけアニメを持っていっていいよ、と言われたら、たぶん無印を持っていくと思います。ごめんなさい。

ただ、「けものフレンズ」自体をここで見限る、という気持ちにもなれません。それがきっかけでツイッターアカウントをフォローしてくださっている方もたくさんいらっしゃいますし、新フレンズ登場をきっかけにもと動物についての情報がタイムラインに溢れる現象はとても楽しいですし、キャラクター自体はとても好きなので(わざわざ入会している動画サービスで観れる限りほかのアイドルアニメのライブシーンを確認してみて、「やっぱりプリンセスがいちばんかわいい」と思いました。プリンセスはかわいいし、かばんよりも人間臭いところが最高です)。繰り返しになりますが、「2」の中に好きなところがたくさんあるのも事実です。わりと、悩ましい状態で過ごしていますが、たぶん、けものフレンズプロジェクトはこれからも追いかけていくのではないかと思います。

最後に余談ですけれど、『けものフレンズ2』を追いかけながら、ときどき、以前読んだ本の一節を思い起こしていました。

川端裕人さんの『動物園にできること』の冒頭に出てくる一節です。

ぼく自身、動物園が好きである。正確に言えば、少なくとも子どもの頃、動物園には目がなかった。毎週のように両親や祖父に地元の動物園に連れていって欲しいと頼み、実際に訪れると、お気に入りのゾウやカバやキリンの展示に向かって子どもなりの猛スピードでダッシュした。(中略)

長ずるにあたって、少しずつ動物園の持つ意味が変わってきた。動物園が好きかと聞かれればきっと今でも「好きだ」と答える。しかし、そう答えた時に、心にわきあがるフクザツな気持ち。いつのまにかぼくにとって動物園は、動物を見ることができる楽しい場所から、それだけではすまない多くの問題を抱えた場所になっていた。

(中略)

野生動物を飼うということがいったいどういうことなのか、あらためて考えさせられる。野生動物は棲息地から引き離した瞬間に野生動物ではなくなる。それでも彼らを動物園に連れてきて人間に見せる意義というのはなんなのだろう。動物園を好きであると言明しつつ、動物園の存在を正当化するのが難しく感じる瞬間もある。

動物園が好きな人なら、多分全員が同じように感じているのでは思う内容ですが、「けものフレンズ」に対する感情はわりとこれに近いなあ、と思ったのです。もちろん、たかがアニメがなにか失敗したところで動物が死ぬわけではないので、こんなややこしく考える必要はひとつもないのですけれど、なんというか自分が分裂する感じは重なりました。まさか動物園を戯画化したアニメーションでこんな思いを抱くことになろうとは。