ペンギンの話

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けものフレンズ2の感想

アニメ『けものフレンズ2』が最終話を迎えました。ひと段落ついたところで、私の感想を書き留めておきたいと思います。

放送期間中、私は最新話の放送を楽しみにしていましたし、作品のなかからいろいろないいところを見つけることができました。「人と動物の関係」をサブテーマにしたのは目の付けどころがよかったと思いますし、キャラクターの造形もかわいかったですね。アイキャッチの動物解説は、情報の充実度という点ではあのやり方が正解だろうと思います。PPPのライブシーンは圧巻でしたね。何度も見てます。

けれど最終的に、私のなかで『けものフレンズ2』は、(前作のように)手放しで称賛できる作品にはなりませんでした。どうしても気になってしまう点があったからです。

それらは、大きく3つのカテゴリーに分けられます。第8話のなかに、それぞれがよく表れているように思うので、これを例にとって説明します。

第8話は、PPPとマーゲイの登場する回です。PPPのステージに新しい要素を取り入れて広がりを持たせようと考えたマーゲイが、PPPを主役とした演劇の開催を計画するも、演劇という概念自体がフレンズに共有されていないこと、PPP自身も演劇の経験がなく不安感が強かったことから、計画は頓挫。しかし、ステージ本番でのトラブルを打開するためにキュルルたちの協力によりその演劇を行ったところ、結果的にステージは大成功し、マーゲイはPPPからその功績を認められ、信頼を勝ち取る、というあらすじです。

この回のなかでまず私が違和感を覚えたのは、マーゲイに対するPPPたちの反応でした。お互いの関係性を考慮すると、ちょっと素っ気ない、というよりは冷たくないか、と感じられてしまったのです。

演劇の実施に関してPPPがマーゲイにNOを突きつける場面は、作中で2回出てきます。1回目は、ほかの演者のオーディションの審査員から降りるとき。このときはプリンセスが、新曲の練習に集中したいことをマーゲイに伝えます。マーゲイはメンバーに気を使い、オーディションを1人で引き受けると伝えますが、それに対する謝罪や感謝の言葉はありませんでした。そばにいたコウテイもとくにフォローするでもなく、まるでマーゲイが自ら進んで「任せてください」と言ったかのように「そうか、じゃあ、任せた」と返します。2回目は、アクションシーンのある劇で怪我をしたら肝心のステージに差し支えるからと、演劇自体の中止を提案するとき。ここではプリンセスは、「マーゲイがいろいろ考えてくれているのはわかる」と理解を示しつつも、やはり謝罪などはなく、「今回は必要ないかなって」といささか強めの言葉を使っています。コウテイからもやはりフォローはなく、マーゲイが引き下がると、むしろ厄介ごとが片付いたというような口調で、「よし、じゃあ歌の練習を再開だ」とその場を後にします。残りのメンバーからもマーゲイを気遣うような発言はとくにありません。

これらのシーンを見て、PPPとマーゲイはこんなにすれ違っちゃってるのか、と私はおののきました。とくに、アニメ無印では飛び出していったプリンセスをまっさきに追いかけようと言うなど仲間思いな面があると感じていたコウテイがなんのフォローもしない、むしろ追い討ちをかけるようなことを言うというのはくっきりショックでした。

PPPは世代によってメンバーの人数が変動します。フライ先生の漫画版では正確な人数は出てきませんが、ネクソンアプリ版では4人で、ロイヤルペンギンはいませんでした。その前提で、アニメ1期と同じ5人、さらに漫画版やアプリ版ではPPPとからみのなかったマーゲイが無印と同じくマネージャーについているのですから、「2」の個体は無印と同一個体である可能性が高いと思われます。だとすれば、そもそも無印でのPPPの危機を救った功績が認められてマネージャーに任命されたマーゲイとPPPとの間には、はじめから信頼関係が成り立っていたはずです。それがどうして、コウテイにすら、社交辞令であっても「ありがとう」や「ごめんなさい」を言ってもらえないまでに冷え込んでしまったのか。もっとはじめから信頼関係を感じられるように描いてくれてもよかったのではないか、と感じました。

けものフレンズ2』では、このように胸をざらつかせる描写がいささか多かったように思います。それが、気がかりの1つめです。

第8話については、あるいは、同じ構成であっても「2」のPPPとマーゲイは無印とは別個体なのかもしれません。マーゲイの回想シーンやPPPのサーバルに対する反応(というか無反応)など、そう思わせるような要素はあります。「2」のマーゲイはまた新たにPPPと信頼関係を築いている途中である、と考えれば、納得はできます。ただ、その場合は別の疑問を抱かざるを得ません。それは、このPPPはなんでアイドルをしているんだろう、という疑問です。過去作品では理由付けは容易でした。漫画版やネクソン版は「ヒトがいた頃のジャパリパーク」が舞台なので、イルカショーをやるような感覚でフレンズのアイドルグループを作ろうとヒトが画策したのだろうと自然に考えられます。アニメ無印では、過去にパークにアイドルというものが存在したことを知ったプリンセスが、自分もやってみたいと過去のPPPメンバーを調べ、該当するフレンズをリクルートしてPPPを結成しました。舞台版はアニメ無印のパラレルワールド。じゃあ、今回は? 無印では、プリンセスに声をかけられるまで、ほかのメンバーはアイドルになろうだなんて露ほども考えていませんでした。ペンギンが自然にアイドルになるのではないならなんらかのきっかけが必要だったはずですが、それがなんだったかは、「2」のなかでは語られることがありません。「2」の第8話はあくまでマーゲイが主役だったので設定はあっても省いたのかもしれませんが、別個体であるならば、軽くでも、理由の提示があればよかったのにな、と思ってしまいます。そもそもそのあたりがあやふやなせいで、このPPPとマーゲイが無印と同一個体なのか別個体なのか、いまいち判断がつかなくなっているようにも思うからです。マーゲイが登場時にサーバルに反応していたので(ピンポイントでサーバルに反応していた描写ではなかったですが、流れを踏まえるとサーバルに反応していたように考えられる)、これは同一個体かな、と思ったものの、その後PPPは無反応。マーゲイから説明があったとしても何かしらの反応はあると思うので、あの無反応っぷりはサーバルを知らない別個体であることの表れのように感じられます。マーゲイだけが同一個体でPPPが代変わりしたのだとしたら、マーゲイの回想シーンと矛盾するように思われます。と、結局なんやねん、と混乱してしまうのです。

けものフレンズ2』では、このような不明瞭な設定も多かったように思います。ほかにたとえば、第10話のアライさんのセリフは無印と同一個体であることを思わせるものでしたが、もしアラフェネが同一個体なのだとすれば、無印のあと自然に世代交代するほどの時間は経っていないと考えられます。しかしそれでは、かばんと一緒に研究している博士と助手は同一個体なのか別個体なのか。同一個体なのであれば島の長の立ち場を捨ててかばんのもとへやってきた理由はなにか、別個体ならばキョウシュウの博士助手はどうなったのか。パークではそんなにたくさん双子が生まれるのか。疑問符がたくさん湧いてきます。そもそもキュルルの正体はなんだったのか。それが、気がかりの2つめです。「けものフレンズプロジェクト」自体が、いろんな設定を曖昧なままにしておくことで作品展開の自由度を担保する戦略をとっているようにも思えますが、キュルルが何者で、どういう経緯でコールドスリープしていたのかがわからないまま、というのはさすがに乱暴なのでは、と思わなくもありません。

3つめの気がかりは、振る舞いが無印の印象とちょっと合わないなぁ、と感じるフレンズが少なからずいたこと。前述したコウテイの振る舞いなどがそうですね。ほかにはかばんにポカがちょっと多いのでは、というあたりも含まれます。ただ、コウテイについていえば別個体であるとはっきりしていればこの子はそういう子なんだな、と捉えることもできますし(アプリ以前のコウテイに白目属性はたぶんなかった。滑り属性ももちろんなかった)、かばんの振る舞いについてはどうしてそうなったのか(海底火山に気づかなかったのは、黒セルリアンに食べられた経験が強烈すぎて「セルリアンは山からくる」というバイアスに縛られていたからではと勝手に想像していますけれど、そういうこと)が仄めかされでもしていれば印象は違ったかもしれませんから、これらは1つめや2つめに還元されるようにも思います。

以上が、私が『けものフレンズ2』に感じている3つの気がかりです。

SNS上では同じような理由のために「けものフレンズ」から離れたらしい人も見かけました。そのことも含めて、これらのことが、『けものフレンズ2』を賞賛できない理由になっているのです。

あるいはこれらの気がかりは、ひとつひとつのエピソードにもう少し時間をかけて、ゆっくり話を進めるようにすれば解消されたのかもしれません。クッションとなるような間や言葉を少し足せば「ギスギス感」はいくぶん和らいだと思いますし、キャラクターの背景をより詳しく描写することもできたように思います。とすればこれらは結局のところ、「尺が足りてない」ということに集約されるのかもしれません。そうであれば、現在連載中の漫画版や、設定・伏線については今後の新作品などでの補足、埋め合わせは可能でしょうから、期待したいところです。

というわけで、敢えて星をつけるとすれば、『けものフレンズ2』は私のなかでは今のところ星3つというあたりです。私にとって楽しめる要素はあるけれど、人に薦めたりはしないだろうな、と感じています(PPPのライブシーンはすごいから見て!と言いますけど。あとロバかわいい)。失敗作という評価に対しても、否定しうるだけの手札を見つけられてはいません。無人島に1本だけアニメを持っていっていいよ、と言われたら、たぶん無印を持っていくと思います。ごめんなさい。

ただ、「けものフレンズ」自体をここで見限る、という気持ちにもなれません。それがきっかけでツイッターアカウントをフォローしてくださっている方もたくさんいらっしゃいますし、新フレンズ登場をきっかけにもと動物についての情報がタイムラインに溢れる現象はとても楽しいですし、キャラクター自体はとても好きなので(わざわざ入会している動画サービスで観れる限りほかのアイドルアニメのライブシーンを確認してみて、「やっぱりプリンセスがいちばんかわいい」と思いました。プリンセスはかわいいし、かばんよりも人間臭いところが最高です)。繰り返しになりますが、「2」の中に好きなところがたくさんあるのも事実です。わりと、悩ましい状態で過ごしていますが、たぶん、けものフレンズプロジェクトはこれからも追いかけていくのではないかと思います。

最後に余談ですけれど、『けものフレンズ2』を追いかけながら、ときどき、以前読んだ本の一節を思い起こしていました。

川端裕人さんの『動物園にできること』の冒頭に出てくる一節です。

ぼく自身、動物園が好きである。正確に言えば、少なくとも子どもの頃、動物園には目がなかった。毎週のように両親や祖父に地元の動物園に連れていって欲しいと頼み、実際に訪れると、お気に入りのゾウやカバやキリンの展示に向かって子どもなりの猛スピードでダッシュした。(中略)

長ずるにあたって、少しずつ動物園の持つ意味が変わってきた。動物園が好きかと聞かれればきっと今でも「好きだ」と答える。しかし、そう答えた時に、心にわきあがるフクザツな気持ち。いつのまにかぼくにとって動物園は、動物を見ることができる楽しい場所から、それだけではすまない多くの問題を抱えた場所になっていた。

(中略)

野生動物を飼うということがいったいどういうことなのか、あらためて考えさせられる。野生動物は棲息地から引き離した瞬間に野生動物ではなくなる。それでも彼らを動物園に連れてきて人間に見せる意義というのはなんなのだろう。動物園を好きであると言明しつつ、動物園の存在を正当化するのが難しく感じる瞬間もある。

動物園が好きな人なら、多分全員が同じように感じているのでは思う内容ですが、「けものフレンズ」に対する感情はわりとこれに近いなあ、と思ったのです。もちろん、たかがアニメがなにか失敗したところで動物が死ぬわけではないので、こんなややこしく考える必要はひとつもないのですけれど、なんというか自分が分裂する感じは重なりました。まさか動物園を戯画化したアニメーションでこんな思いを抱くことになろうとは。