ペンギンの話

ペンギンのことをつらつら書いていきます。

動物園はヴァーチャルにはできないと思う。

動物園はヴァーチャルで代替するべきではないか、という記事を読んだ。

courrier.jp

動物園での体験は必ずしも生態系に対する知識の増加には寄与しておらず、教育効果としては本や映像資料のほうが高い。ならば本物の動物を展示するのではなく、ヴァーチャルを駆使した教材を提供するほうがよいのではないかという主旨の記事だ。

動物園で動物を見ることが知識の増加に繋がりにくいというのは確かだと思う。動物について勉強したいなら、動物園に行くよりも博物館に行ったり図鑑を読んだりしたほうが効率がいいのは間違いない。

けれど、だから動物園は要らないとは私は思わない。

動物園が提供しているものの核は、教科書的な知識にあるわけではないからだ。

世界が変わるような体験というものがある。これまで自分が「世界だ」と認識していたものの外縁が、「ぐんっ!」と押し広げられるような、自分を取り囲んでいた壁が吹き飛ばされるような、そんな体験だ。富士山の山頂で、闇を払い雲海を裂きながら登る太陽を見たとき。乗っている船のすぐ近くで、巨大なザトウクジラが空へ躍り上ったとき。世界とはこんなにも広かったのかということを、自分がこれまで「世界」だと思っていたものは、ほんとうの世界のほんの一部にしか過ぎなかったんだということを思い知らされる。

動物園が提供しているのは、そのような体験だ。日常生活では目にすることのない世界中のさまざまな動物の姿を見せることで、「世界」の壁を吹き飛ばす。それこそが、動物園が存在することの意味なのだ。 時間が許すなら、動物園ではじめてゾウを見る子どもたちの表情を、反応を、よく見てみるといい。陸上最大の動物を前にして、これまでの「常識」が組み替えられていく様が、そこには表れているはずだ。

この役割は、ヴァーチャルでは担うことができない。そこにあるのが「作り物である」とわかってしまった時点で、どれほどよくできたヴァーチャル・リアリティも、その説得力を失ってしまうからだ。どれほど精巧な動物を作ったとしても、本物にしか思えないような完成度で、手触りも、匂いまで再現されていたとしても、それが作り物である以上、「この感覚は本当に本物の動物のものと同じなのか」と疑う余地が残ってしまう。「クマの匂いのするトラ」だって、ヴァーチャルでは作れてしまうはずだからだ。ヴァーチャルである以上、自分の見ているものが本物の再現だと、100%信じることはできない。「こんな動物がいるはずがない、これは架空の動物だ」と、既存の思い込みの方を信じることだってできてしまう。

作り物だとバレないようにすればいい、と考える人もいるかもしれない。しかし、ヴァーチャル・リアリティの提供者側が「これは本物なんですよ」と来園者に嘘をつくことは倫理的に許されないと思う。言われなければ本物だと勘違いするかもしれないものであっても、本物ではなくヴァーチャル・リアリティを見せるなら、提供者側は、「これは作り物だ」とカミングアウトしなければならないだろう。本物だと偽って作り物を見せるなら、詐欺と選ぶところがないからだ。ヴァーチャル・リアリティは、あらかじめ作り物だとわかったうえで見るものなのだ。

それゆえに、ヴァーチャル・リアリティは構造的に「本物」の代わりにはなり得ない。作り物ではなく、ほんとうにたとえばゾウという動物が存在しているのだと、知識ではなく体感として疑いようなく知らしめるためには、本物のゾウを見せるほかにないのだ。

この、「ゾウはほんとうにいる。命を持って、生きている」という体感は、遠く離れた地に住むゾウの保全に関心を持ってもらうために、知識以上に重要になるものだ。知識をどれだけ積み重ねても、この体感がなければ、ときにライフスタイルの大幅な変更を要求することもある「環境保全」に、見返りなく取り組むことは難しい。知識がなくていいわけではないけれど、この体感があれば、ゾウについての知識を得ようという意欲は自ずと湧いてくる。

だから私は、どれほどヴァーチャル技術が発展しようとも、動物園の代替にはならないと考えている。「本物」の動物を見せる場所は、どうしたって必要なのだ。

もちろん、持続可能性や動物の福祉を十分に保証できないならば、無理にその動物を飼育しないという選択もあり得るだろう。また、知識を補完する目的で、ヴァーチャル技術を取り入れていくこと自体は面白い試みだと思う。しかし、動物園それ自体は、本物を見せる施設として、存続していくべきだ。

必要なのは、「どうすれば本物の動物を見せ続けていくことができるか」を考えることだと思う。